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足跡の重さ、あるいは舞台裏の邂逅

ドームを揺らした熱狂が、まるで遠い異世界の出来事だったかのように、ぴかりが丘学院の放課後は穏やかな静寂に包まれていた。校門へと向かう生徒たちの雑踏に紛れながら、美墨なぎさは、いつもより少しだけ重く感じる機材バッグを肩にかけ直した。数日前まで、自分たちは間違いなくあの巨大なステージの中心にいた。宇佐美いちかの放つ黄金の旋律に喉元まで食らいつき、あと一歩で王座を引きずり下ろすところまで迫った。けれど、今こうして歩いているのは、何の変哲もない通学路だ。このギャップこそが、敗北という現実を何よりも雄弁に物語っていた。


レッスンルームに辿り着くと、すでに星空みゆきが鏡の前で、ステップの基礎練習を繰り返していた。彼女の動きには、ドーム前にはなかった「鋭さ」が宿っている。一度、絶対的な王者の背中を間近で見たことで、彼女の中の基準が書き換えられたのだろう。なぎさは、黙って自分もレッスンウェアに着替え始めた。


「なぎささん、お疲れ様です!」


みゆきが、汗を拭いながら満面の笑みで駆け寄ってくる。その明るさに、なぎさは少しだけ救われるような、それでいて少しだけ眩しすぎるような、複雑な心地になった。


「……みゆき、あんた、筋肉痛は?」


「あはは、まだバキバキです! でも、動かないと、あの時の感覚を忘れちゃいそうで怖くて」


みゆきの言葉に、なぎさは小さく頷いた。あの極限状態での共鳴、思考が音と同期し、世界がスローモーションに見えたあの感覚。それは中毒的なまでの高揚感だった。なぎさは、カバンから一冊のノートを取り出した。そこには、白鳥学園戦の全記録と、自分たちのパフォーマンスの欠点が、びっしりと書き込まれている。リードとしてのなぎさの戦いは、ステージが終わった後も続いているのだ。


その日の練習が一段落した頃、なおコーチがふらりと顔を出した。彼女の手には、何枚かの封筒が握られている。


「……少し、面白い誘いが来ているわよ」


メンバー全員が顔を上げる。なおコーチが差し出したのは、近隣のアイドル養成所や他校のユニットが集まる、合同ワークショップの招待状だった。


「白鳥学園との一戦で、あなたたちの名前は一部の層に強烈に刻まれた。今はまだ『負けた無名校』かもしれないけれど、その可能性を確認したい連中がいるみたいね。……特になぎさ、あなたに興味を持っている指導者が多いわ」


なぎさは、驚きに目を見開いた。自分はただ、みゆきという奔放な才能をどう活かすか、それだけを考えてきた。その「裏方」としての執念が、プロの目には特異な才能として映ったのかもしれない。


「……いい機会よ。自分たちの立ち位置を、もう一度客観的に見つめ直しなさい」


なおコーチの言葉に従い、数日後、なぎさとみゆきは、指定された都内の大型スタジオへと足を運んだ。そこには、ぴかりが丘とはまた異なるオーラを纏った、多種多様なアイドル候補生たちが集まっていた。


スタジオの隅で、なぎさは一人の少女の姿に目を止めた。彼女は、宇佐美いちかのような圧倒的な華があるわけではない。けれど、その立ち姿、周囲の音を聴く時の集中力、そして何より、無駄のない洗練された所作に、なぎさは本能的な警戒心を覚えた。


「……ねえ、君がぴかりが丘の美墨なぎさ?」


不意に声をかけられ、なぎさは肩を跳ねさせた。振り返ると、そこには薄く微笑む短髪の少女が立っていた。彼女の瞳は、まるでなぎさの内側を見透かすような、怜悧な光を湛えている。


「白鳥学園戦、動画で見たよ。……君のリードは、論理的すぎて面白いね。でも、あのみゆきって子の野生に、最後は振り回されてたんじゃない?」


なぎさは言葉に詰まった。初対面の相手に、最も痛いところを突かれたからだ。


「……あんた、誰?」


「私は日向大和……の妹、と言えば通じるかな。今は別のユニットで動いてる。今日は、次代のリード候補が集まるって聞いたから、冷やかしに来ただけ」


彼女が口にした「日向大和」という名は、かつてアイドルシーンに革命を起こした伝説的なプロデューサーの名だ。その血筋を引く者が、自分を「面白い」と評した。なぎさの心に、小さな、けれど消えない火が灯った。


ワークショップが始まると、そこは言葉通りの「戦場」だった。基本的なリズム取り、即興のコーラス、そして他者とのシンクロ。なぎさは、自分が積み上げてきた理論が、他の才能とぶつかり合うたびに火花を散らすのを感じた。みゆきもまた、初めて出会う「自分より速いステップ」や「自分より高い音域」を持つ少女たちに刺激され、目を輝かせていた。


休憩時間、なぎさはスタジオの外にある自販機で、冷たい炭酸水を買った。喉を焼くような刺激が、今の自分には心地よかった。


「……王者の次は、迷宮か」


なぎさは、独り言を漏らした。白鳥学園という、高くそびえ立つ山を登りきれなかった自分たちの前に、今度は横に広く、どこまでも深い森が広がっているような感覚。アイドルという世界は、知れば知るほど底が知れない。


「なぎささーん! 次、合同ユニットの課題曲が決まりましたよ!」


スタジオの中から、みゆきの弾むような声が聞こえてくる。なぎさは、飲みかけのボトルをカバンにしまい、再び扉へと手をかけた。


負けたことは、終わりではなかった。むしろ、あの敗北こそが、自分たちの世界を広げるための鍵だったのだ。白鳥学園の宇佐美いちかが、まだ自分たちのことを見ているかはわからない。けれど、ここで立ち止まれば、二度とその視界に入ることはできない。


なぎさは、鏡の中に映る、少しだけ鋭くなった自分の顔を睨みつけた。宇佐美いちかの光に焼かれた翼は、今、より強固な漆黒へと変色し始めている。


「……待ってなさいよ、宇佐美いちか。次、あんたの前に立つ時は、影さえ踏ませないわ」


なぎさは、力強い足取りでレッスンフロアへと戻っていった。ぴかりが丘学院の烏たちは、今、新しい風を捕らえ、より高く、より遠くへ羽ばたくための助走を開始していた。


ドームの熱狂は、もう思い出ではない。それは、明日を切り拓くための、冷たく、そして熱いガソリンとなって、彼女たちの血の中に流れ続けている。

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