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境界線の残響、あるいは明日の輪郭

ドームの照明が落ちてから数日が経っても、ぴかりが丘学院のレッスンルームの空気は、どこか薄く、冷たいままであった。壁一面の鏡は、数日前のあの狂熱を一切記憶していないかのように、ただ淡々と、揃いの練習着に身を包んだ六人の少女たちを映し出している。美墨なぎさは、バーレッスン用の手すりに手をかけ、自分のふくらはぎの筋肉が、まだ微かな痺れを帯びているのを感じていた。それは、あのステージで極限まで使い倒した身体が、自分たちが「敗北者」であることを物理的な感覚として訴え続けている証だった。


練習の合間、メンバーたちは床に座り込み、それぞれに言葉を失っていた。星空みゆきは、いつもなら真っ先に「次、いきましょう!」と騒ぎ出すはずだが、今は膝を抱え、ただ静かに自分の指先を見つめている。第5トラック、あの最後の一瞬。彼女の指先に触れたはずの王者の残響。あと数パーセントの支持率があれば、自分たちの名前は歴史に刻まれていた。その「あと少し」の距離が、今は何万キロもの宇宙の深淵のように感じられた。


「……なぎさ。そんなに自分を責めても、支持率は戻ってこないわよ」


月影ゆりが、ペットボトルの水を飲みながら静かに告げた。彼女の言葉は鋭いが、そこにはユニットを支え続けてきた最年長としての、深い慈愛が混じっている。なぎさは顔を上げず、ただ短く「わかっています」とだけ答えた。なぎさの脳内では、あの日、宇佐美いちかが放った最後の一音の波形が、何度も何度もリピートされていた。完璧なピッチ、圧倒的な音圧、そして聴く者を屈服させる強固な意志。自分の設計した「共鳴」は確かにいちかに届いた。けれど、届くことと、超えることは全くの別物なのだ。


この時期、アイドルを目指す学生たちにとって、夏の終わりは単なる季節の区切りではない。それは「継続」か、あるいは現実的な進路という境界線を突きつけられる、残酷な審判の時でもある。特に、最高学年であるゆりにとっては。なぎさは、ゆりの横顔を盗み見た。彼女はこの敗北をどう捉えているのだろうか。このまま、白鳥学園という頂を仰ぎ見たまま、引退という名の出口へ向かってしまうのだろうか。


なぎさがそんな不安を抱いた瞬間、レッスンルームの扉が勢いよく開いた。現れたのは、なおコーチだった。彼女の腕には、一束の分厚い資料が抱えられている。


「全員、集合しなさい。……呆けている暇なんてないわよ。次のプロジェクトが、もう動き出しているんだから」


その言葉に、部屋の空気が一変した。なおコーチが床に広げたのは、秋に開催される「合同フェスティバル」のエントリーリストと、これまでにない規模のプロモーション計画だった。メンバーが目を見開いたのは、その参加者リストの最上段ではなく、自分たちのユニット名に添えられた「特待枠」という文字だった。


「特待……? 負けたのに、どうして」


日向咲が信じられないといった様子で呟く。なおコーチは、不敵な笑みを浮かべた。


「あなたたちがドームの床に残してきたものは、ただの敗北じゃないわ。数万人の観客、そして業界のプロたちが、あの日、無名の烏たちが王者の首を獲りかけた瞬間に熱狂した。その『熱』を、大人が放っておくわけがないでしょう。白鳥学園の宇佐美いちかも、あなたたちとの再戦を、公式に……いいえ、彼女自身の意志で望んでいるわ」


その瞬間、なぎさは自分の指先の痺れが、熱い波動へと変わるのを感じた。いちかが、自分たちを認めた。それは、玉座からの慈悲ではない。対等な獲物として、再び目の前に現れることを要求しているのだ。


「……面白いじゃない。あんな高い場所から呼びつけられて、黙っているわけにはいかないわね」


なぎさが立ち上がり、マイクスタンドを強く握りしめた。その横で、みゆきがパッと顔を輝かせる。


「なぎささん! 私、次は絶対、いちかさんの光を追い越してみせます! どんなに眩しくても、目を逸らさないで跳びます!」


「はしゃぎすぎよ、みゆき。まずは崩れた基礎の叩き直しから。……ゆりさん、いいですよね?」


なぎさの問いかけに、ゆりは静かに立ち上がり、鏡の中の自分を、そして仲間たちを見つめた。


「ええ。私たちが描くべき新しい地図は、もうできているみたいね。……今度は、誰も見たことがない景色を見に行きましょう」


六人が再び、鏡の前に並んだ。夏木りんがリズムを刻み、秋元こまちが新しい旋律の断片を口ずさむ。夏の終わりの、どこか寂しげだった夕暮れは、今、新しい夜明け前の静寂へと塗り替えられていく。


なぎさは、深く息を吸い込んだ。宇佐美いちかという太陽は、まだ遥か高く、自分たちの翼を焼き尽くすほどに眩しい。けれど、今の彼女たちには、その光を道標に、より高く、より鋭く羽ばたくための確信があった。負けたからこそ手に入れた、剥き出しの飢餓感。それこそが、彼女たちを真の怪物へと変えるための、最強のガソリンだった。


「——イントロ、流して」


なぎさの合図とともに、スピーカーから爆発的なビートが鳴り響いた。それは、昨日までの悔しさを根こそぎ奪い去り、明日への渇望を旋律に変えた、猛烈な足音のような音だった。ぴかりが丘学院の少女たちは、今、自分たちだけの新しい物語を、その足跡で力強く刻み込み始めた。


一度折れた翼は、前よりもずっと硬く、黒く、逞しく再生されていた。ドームの観客も、白鳥学園も、そして世界もまだ知らない。この烏たちが、次に羽ばたいたとき、どれほど巨大な影で太陽を覆い隠すことになるのかを。

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