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落日の残響、あるいは明日の糧

ドームの喧騒が遠い過去の出来事のように感じられるほど、ぴかりが丘学院のレッスンルームは静まり返っていた。壁一面の鏡には、昨日までの「特別」を脱ぎ捨て、質素な練習着に身を包んだ六人の少女たちが映っている。美墨なぎさは、バーレッスン用の手すりに手をかけ、自分のふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げているのを確認した。あのステージで限界まで使い倒した身体は、まだ自分たちが「敗北者」であることを物理的な痛みとして刻みつけている。


「……なぎささん、ストレッチ代わりましょうか?」


星空みゆきが、少しだけ遠慮がちに声をかけてきた。彼女の目元はまだ少し腫れているが、昨日、定食屋で見せたあの決死の表情は、今はもう穏やかな闘志へと変わっている。なぎさは「大丈夫よ」と短く返し、ゆっくりと上体を倒した。


この時期、アイドルを目指す学生たちにとって、夏の終わりは単なる季節の区切りではない。それは「継続」か「引退」か、あるいは「進路」という現実的な境界線を突きつけられる、残酷な審判の時でもある。特に、最高学年である月影ゆりにとっては。


なぎさは、部屋の隅で一人、黙々とボイストレーニングの基礎を繰り返すゆりの背中を見つめた。ゆりは、白鳥学園との戦いにおいて、誰よりも冷静に、そして誰よりも献身的にユニットを支えた。彼女がいなければ、ぴかりが丘は第1トラックで瓦解していただろう。だが、そんな彼女も、卒業というタイムリミットからは逃れられない。


休憩時間、なぎさは意を決してゆりの隣に座った。


「……ゆりさん。これからのこと、何か考えてるんですか」


直球すぎる問いだったかもしれない。ゆりは水を飲む手を止め、少しだけ意外そうになぎさを見た。その瞳は、ドームの照明の下にいた時と同じように、どこまでも透き通っていて、底が見えない。


「なぎさ、あなたは私がこのまま、マイクを置くと思っているの?」


ゆりの問い返しに、なぎさは言葉を詰まらせた。ぴかりが丘のこれまでの歩みは、ゆりという絶対的な「柱」があってこそのものだった。もし彼女がいなくなれば、ユニットの構成そのものをゼロから見直さなければならない。それは、なぎさが積み上げてきた設計図が、根本から崩れることを意味していた。


「……そういうわけじゃ、ないですけど。でも、現実は……」


「現実は、私たちが負けたということ。そして、私がもうすぐこの学び舎を去るということね」


ゆりは、窓の外に広がる夕焼けを見つめた。空は、あの日の定食屋で見たものと同じ、燃えるような茜色をしていた。


「でもね、なぎさ。宇佐美いちかが見せつけてくれたあの景色を一度知ってしまったら、もう戻る道なんてないのよ。少なくとも、私は。……あなたが私を『もう必要ない』と言うまで、私は私の歌を辞めるつもりはないわ」


その言葉は、なぎさの胸を熱く焦がした。ゆりは、後輩たちのために残るのではない。彼女自身が、自分という表現者の極致を求めて、まだ戦うことを選んだのだ。なぎさは、自分の視野がいかに狭かったかを思い知らされた。自分は「ユニットの存続」という小さな枠組みで考えていたが、ゆりは「表現者としての生涯」という、より大きな地図を描いていたのだ。


その時、レッスンルームの扉が勢いよく開いた。夏木りんと日向咲が、何やら騒がしく駆け込んでくる。


「ねえ、聞いてよ! 次の合同フェスのエントリーリストが出たんだけど……!」


りんが差し出したスマートフォンの画面を、メンバー全員が覗き込む。そこには、国内最大級のアイドルフェスティバルの名前と共に、招待枠として「白鳥学園」の文字、そして——選抜枠の候補として、自分たちの「ぴかりが丘学院」の名前が記載されていた。


「選抜……? 負けたはずの私たちが?」


秋元こまちが不思議そうに呟く。しかし、なぎさは理解していた。あのドームでの戦いは、確かにスコアの上では敗北だった。けれど、あの場で目撃された「共鳴」は、業界の大人たちや、数万人の観客の心を、理屈抜きで動かしたのだ。


「……チャンスね。今度は『善戦した無名校』としてじゃなく、対等なライバルとして、あの場所へ行くわよ」


なぎさの言葉に、部屋の空気が一気に引き締まる。みゆきが、パッと顔を輝かせた。


「なぎささん! 私、もっと新しい跳躍の練習します! 今度は、いちかさんの光に隠れないくらいの!」


「はしゃぎすぎよ、みゆき。まずは基礎からやり直し。……全員、ポジションにつけ!」


なぎさの号令に、六人が再び鏡の前に並ぶ。ゆりは、なぎさの隣で微かに微笑み、誰よりも深く、重心を落とした。


夏の終わり。それは、烏たちが新しい翼を整えるための、静かな準備期間。 美墨なぎさは、鏡の中の自分を睨みつけた。宇佐美いちかという太陽は、まだ遥か高くに君臨している。けれど、今の彼女たちには、その光を目指すための明確な航路が見えていた。


「——イントロ、流して」


なぎさが合図すると、スピーカーから新しいビートが刻まれ始めた。それは、昨日までの悔しさを糧にし、明日への渇望を旋律に変えた、力強い足音のような音だった。ぴかりが丘学院、その六人の少女たちは、今、自分たちだけの「新しい地図」を、その足跡で刻み込み始めていた。

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