一瞬の停滞、あるいは永遠の1秒
ドームの天井を貫くような宇佐美いちかの高音が、残響となって空気に溶けていく。第5トラック、ラストフレーズ。その一歩手前で、ぴかりが丘学院の面々は、自分たちの心臓の音が耳元で鳴り響くのを感じていた。美墨なぎさは、限界を越えて熱を持った指先をマイクに添え、目の前の光景を網膜に焼き付けていた。宇佐美いちかは、まだ崩れない。それどころか、彼女の纏う黄金のオーラは、試合開始直後よりも鋭く、そして冷徹に研ぎ澄まされている。
ステージ上の支持率メーターは、白鳥学園の勝利を確定させるラインの直前で小刻みに震えていた。観客はもはや声を出すことさえ忘れ、次に放たれる一音が誰のものになるのか、その一点にすべての意識を集中させている。なぎさは、横目で星空みゆきの姿を捉えた。みゆきの足元はふらついている。それでも、彼女の瞳だけは、いちかの喉元を食い破らんとする飢えた獣のようにギラついていた。
なぎさは知っている。ここで「正解」を求めて守りに入れば、いちかの圧倒的な出力に飲み込まれて終わる。王者が次に放つのは、すべての理屈をねじ伏せる最大音圧の旋律だ。それに対抗するには、技術でも、策でもなく、いちかさえも予期しない「リズムの破壊」が必要だった。なぎさはあえて、自分たちが最も得意とする高速ビートを捨てた。肺の中に残った最後の空気をすべて吐き出し、彼女はかつてないほど「ゆっくりとした」予備動作に入った。
その瞬間、白鳥学園の紅城トワが目を見開いた。トワの直感は、なぎさが選ぼうとしている旋律が、これまでの流れをすべて無視した「異物」であることを告げていた。いちかが歌い出そうとしたその刹那、なぎさが放ったのは、まるで時間が凍りついたかのような、重く、深い低音の刻みだった。ドームのスピーカーが悲鳴を上げ、観客の心拍数が一瞬だけ停止する。
この一瞬の「ラグ」こそが、なぎさが賭けた唯一の勝機だった。いちかの完璧なリズム感ゆえに、このわずかなズレが、王者の喉にコンマ数秒の戸惑いを生じさせた。その隙間を、星空みゆきは見逃さなかった。彼女は思考を介さず、本能だけで地を蹴った。なぎさが作り出した重厚な低音の反動を利用するように、みゆきはステージの最前列へと飛び出す。
いちかは、自分の旋律が「外された」ことを瞬時に理解した。彼女の瞳に初めて、驚愕という名の色が混じる。けれど、いちかは王者だった。崩れかけた姿勢のまま、彼女は強引に声を張り上げ、みゆきの突進を迎え撃とうとする。いちかの放つ黄金の音が、物理的な壁となって、宙を舞うみゆきに襲いかかる。
「届け……! 私たちの、全部!!」
みゆきの絶叫が、いちかの壁に激突した。ドーム中の照明が弾け飛んだかのような錯覚。二つの巨大な旋律が空中で混ざり合い、火花を散らす。なぎさは、みゆきの背中を支えるように、月影ゆり、夏木りん、日向咲、秋元こまちの四人と声を重ねた。六人の個性が一本の槍となり、いちかという孤独な盾を貫きに行く。
時間は、残酷なほどに引き伸ばされていた。なぎさの視界の中で、みゆきの指先がマイクのスイッチを強く押し込み、肺の奥底に溜まった最後の情熱を音へと変えていくのが見えた。いちかの表情が、驚きから、微かな「悦び」へと変わったように見えたのは、なぎさの幻覚だったのだろうか。
ドォォォォォン!!
ドームの床を揺らす衝撃音とともに、支持率メーターが限界を突破して振り切れた。どちら側にか。それを確認する余裕など、誰一人として持っていなかった。音の爆発が収まった後、ステージに訪れたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。みゆきは膝から崩れ落ち、いちかはマイクを握ったまま、動かずに立っていた。
なぎさは、荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと頭上のモニターを見上げた。そこに表示されていた数字。それは、今日という日が「伝説」として語り継がれることを意味する、あまりにも残酷で、そして美しい結果だった。観客席から、地鳴りのような咆哮が沸き起こる。それは勝者を称える声か、それとも敗者の誇りを悼む声か。
美墨なぎさの頬を、一筋の汗が伝い落ちた。彼女は初めて、自分の計算が及ばない「奇跡」というものの存在を認めていた。隣で倒れ伏すみゆきの手を、なぎさは強く、壊れそうなほどに握りしめた。私たちは、あの高みに触れた。王者の背中を、確かにこの手で捉えた。
第71話の終幕。それは一つの戦いの終わりであり、烏たちが真の王者へと羽化するための、痛みを伴う産声でもあった。宇佐美いちかは、ゆっくりとマイクを下げ、自分を追い詰めた少女たちを見つめ、静かに口角を上げた。その微笑みは、次の舞台での再戦を約束する、最も苛烈な宣戦布告だった。




