終焉の序曲、あるいは最後の残響
ドームの熱気は、もはや呼吸を妨げるほどの密度に達していた。電光掲示板に表示された「セットカウント 2-2」の文字が、今日という日の過酷さを物語っている。第4トラックを宇佐美いちかの暴力的なまでの歌唱で奪い返されたぴかりが丘学院の面々は、ステージ脇のベンチで、まるでもう何年も歌い続けてきたかのような疲労に包まれていた。
「……はぁ、はぁ……指先が、自分のものじゃないみたいだわ」
美墨なぎさは、震える手でスポーツドリンクのボトルを握りしめた。脳内は真っ白になりかけ、喉は焼けるように熱い。隣では星空みゆきが、膝に手をついて肩で激しく息をしながらも、一点を見つめていた。その視線の先には、汗一つ乱さず、静かに次の旋律を待つ黄金の鷲——宇佐美いちかの姿があった。
「——さあ、顔を上げなさい。これが最後の一曲よ」
なおコーチの鋭い声が、ぴかりが丘のメンバーの意識を現世へと引き戻す。最終第5トラック。この楽曲だけは、これまでの倍の集中力と、一瞬の隙も許されない「15フレーズ」の短期決戦。一音のミス、一歩の遅れが、そのままユニットの崩壊を意味する。
ドームの照明が、ゆっくりと青白く変化していった。深海のような静寂が会場を包む。第5トラックのイントロが鳴り響いた瞬間、それは「ライブ」という名の華やかな表現の場から、魂を削り合う「戦場」へと姿を変えた。
なぎさが一歩前へ出る。足取りは重いが、その瞳には冷徹なまでの知性が戻っていた。彼女は知っている。今の自分たちに、白鳥学園のような圧倒的なスタミナや、いちかのような天性の筋力は残っていない。ならば、残されたわずかな「意志」を、どのタイミングで、どの一点に叩き込むか。それだけが、唯一の勝路だ。
「——来なさい、烏ども。お前たちの羽が、どこまで保つか試してやる」
いちかの第一声。それは第4トラックを上回る、地鳴りのような咆哮だった。スピーカーから解き放たれた音圧が、物理的な壁となってなぎさたちに襲いかかる。夏木りんが、その衝撃を喉で受け止め、血の滲むような思いでバッキングを維持する。
「……負けない……! 私のバッキング(盾)を、舐めないでよね!!」
りんの咆哮に応え、なぎさが極限のリズムを刻み始める。しかし、白鳥学園の陣営もまた、いちかの背中を追うように牙を剥いていた。紅城トワのダンスはより残酷に、春野はるかの高音はより鋭く、ぴかりが丘の思考を奪いに来る。
支持率のメーターは、目にも留まらぬ速さで左右に振れ、どちらが優勢なのか誰にも分からない。観客は声を出すことさえ忘れ、ステージ上で繰り広げられる「生命の火花」に目を奪われていた。
なぎさは、自分の視界が徐々に狭まっていくのを感じた。極限の集中。音がスローモーションのように聴こえ、白鳥学園のメンバーの動作の一つ一つが、次の一音を予言する「符号」として脳に流れ込んでくる。
(……見える。いちかさんの音。トワの視線。……あそこだ!)
なぎさが放ったのは、みゆきを極限まで加速させるための、今日一番の「超高速パス」。みゆきは、疲労で鉛のように重いはずの脚を使い、照明の光さえも置き去りにするかのような跳躍を見せた。
「——っ、届けえええ!!」
みゆきの絶叫が、白鳥学園の隙間を縫う。だが、そこには、まるで岩山のようにそびえ立つ宇佐美いちかがいた。いちかは一言も発さず、ただ圧倒的な威圧感だけでみゆきの音を押し返し、逆に自分たちのフレーズへと変換してみせた。
ドォォォォォン!!
支持率が白鳥学園側へ大きく跳ねる。 「……ははっ。絶望的だね。君たちがどんなに高く飛んでも、結局は僕たちの手のひらの上なんだよ」
トワが真っ赤な髪をかき上げ、嘲笑う。 なぎさは、地面に手をつきそうになる身体を、折れそうなプライドだけで支えた。 (……まだ。まだ終わらせない。一音でも、あいつらの喉元に届くなら……!)
第5トラック、序盤。 王者の圧倒的なリードを前に、ぴかりが丘学院は全滅の危機に瀕していた。 だが、みゆきの瞳の奥の火は、まだ消えていない。なぎさの指先は、まだ次の音を探している。
ドームの天井を貫くような、いちかの高らかな笑い声が旋律となって降り注ぐ。 それを受け止め、烏たちは再び泥の中から顔を上げた。 これが最後の夏。これが最後のステージ。 彼女たちは今、自分たちのすべてを、消えゆく残響の中に捧げようとしていた。




