残光の逆流、あるいは王者の孤独
スタジアムを支配する熱狂は、もはや理性を焼き切り、本能の咆哮へと変わっていた。支持率のメーターは「白」と「黒」の間で狂ったように振れ続け、どちらが勝者としてステージを降りるのか、誰にも予測できないカオスが渦巻いている。美墨なぎさの視界は、飛び散る汗と激しい照明の残像で白く霞んでいた。けれど、彼女の指先だけは、かつてないほどに研ぎ澄まされ、鍵盤の冷たい感触を鋭敏に捉えていた。
「——まだよ。まだ、音は途切れていない!」
なぎさの叫びが、インカムを通して五人の鼓動を叩く。宇佐美いちかが放つ、暴力的なまでに純粋な絶唱。それは一撃ごとにぴかりが丘学院の喉を焼き、精神を削り取っていく。けれど、どれほど強大な光が降り注ごうとも、月影ゆりが作り出した「影の防壁」は、もはや揺らぐことはなかった。
いちかの声が空気を震わせるたび、ゆりは自身のベースマイクを盾にするようにして、その音波の直撃を食い止める。ゆりの指先はすでに感覚を失い、弦を弾くたびに鋭い痛みが走っているはずだった。だが、彼女の眼鏡の奥の瞳は、まるで深海の底のように静まり返り、王者の「次の呼吸」を虎視眈々と狙い続けていた。
「いちかさん。あなたの声は確かに、この世界の頂点かもしれない。……でも、頂点に立つということは、それ以外のすべてと乖離しているということよ」
ゆりの静かな独白が、重厚な低音となってスタジアムの床を這う。
王者のユニット「キラキラ☆パティスリー」は、いちかという唯一無二の太陽を輝かせるための完璧なシステムだ。琴爪ゆかりが道を塞ぎ、有栖川ひまりが色彩を添え、立神あおいが鼓動を刻む。しかし、その完璧な調和こそが、予期せぬ「不協和音」に対する脆弱さを孕んでいた。
なぎさは、ゆりが削り出したわずかな音の隙間に、自身のすべてを注ぎ込んだ。
それはもはや譜面に基づいた演奏ではなかった。星空みゆきの躍動、夏木りんの力強さ、日向咲の奔放さ、秋元こまちの繊細さ。そのバラバラな五人の「生」を、なぎさという触媒が強引に繋ぎ止め、いちかの光の奔流へと逆流させる。
「——咲、りん! ステージの端まで走り抜けなさい! 観客の視線を、音の残像で塗り潰すのよ!」
なぎさの采配に応じ、二人の少女が閃光となってステージを駆ける。王者の絶対的なシンメトリーが、その野性的な動きによって乱され始める。いちかは、自身の歌声が、かつてないほど「重い」と感じていた。今までなら一蹴できたはずの「小さな烏」たちが、泥だらけの羽を広げて自分にまとわりつき、その重力で地上へ引き摺り下ろそうとしてくる。
いちかが最高潮のサビに向けて、一気に肺の中の空気を圧縮した。
スタジアム中のペンライトが、彼女の意思に呼応するように白く輝く。
放たれる、最大級の絶唱。
「——おおおおおおおおおおっ!!!」
その圧倒的な質量に、スタジアムが物理的に震えた。
最前列の観客は、その音圧に圧されてのけぞり、なぎさの指が一瞬、鍵盤から弾き飛ばされそうになる。
だが、その光の渦のど真ん中に、一羽の烏が飛び込んだ。
星空みゆきだった。
彼女は、いちかの声が最も強く響くその瞬間に、あえて自身の声を完全に消した。
音の空白。
いちかの放った強大なエネルギーが、みゆきという「無音の穴」に吸い込まれ、一瞬だけスタジアムの音響バランスが崩壊する。
「——そこだっ!!」
なぎさが、その隙間に自身の指を叩きつけた。
ゆりが作った影、みゆきが作った空白。それらすべてを繋ぎ合わせ、なぎさはこれまでで最も醜く、最も美しい、狂気の和音を爆発させた。
「——ああああああああああっ!!!」
ぴかりが丘学院、六人全員による総力戦の咆哮。
それは王者の光を透過させるのではなく、その光を正面から受け止め、自分たちの「黒」で塗り替えてしまうほどの色濃い叫びだった。
支持率のメーターが、限界を超えた負荷に痙攣し、ついに「黒」の領域へと深く食い込んだ。
王者の城壁が、音を立てて崩れ始める。
宇佐美いちかは、自身の喉が枯れ始めていることに気づき、愕然とした。
自分は負けない。自分こそが正解だ。そう信じて疑わなかった王者の心に、初めて「孤独」という名の冷たい風が吹き抜けた。隣に仲間はいる。けれど、自分と同じ重圧を背負い、同じ絶望を共有し、泥を啜りながら音を繋ぐ……そんな「醜い連帯」を、彼女は知らなかった。
「……これが、君たちの選んだ……戦い方か、美墨なぎさ」
いちかは、自分を見上げるなぎさの、燃え盛るような瞳を見つめた。
そこにあるのは崇拝でも、恐怖でもない。
ただ、自分を喰らい尽くし、次の地平へ行こうとする、剥き出しの「飢え」だった。
漆黒の翼は、王者の光を糧にして、より巨大な影となってスタジアムを覆い尽くそうとしていた。
なぎさは、血の混じった唾を吐き捨て、狂気的な笑みを浮かべて再びマイクを握った。
「——さあ、宇佐美いちか。あんたの物語、ここで私たちが終わらせてあげるわ!」
スタジアムは今、誰もが予想しなかった「王者の落日」を予感させる、凄絶な沈黙と爆発の狭間にあった。




