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不屈の鼓動、あるいは泥濘の羽ばたき

スタジアムを支配する紫の静寂と、宇佐美いちかの白き絶唱。その二つの巨大な力に挟まれ、ぴかりが丘学院の不協和音は今にも消え入りそうだった。美墨なぎさの指は鍵盤の上で震え、月影ゆりの冷静な解析はノイズに埋もれ、星空みゆきの野生は行き場を失って空回りしている。支持率のメーターは無慈悲なほどに王者の独走を示し、スタジアムを埋め尽くす「白鳥」の支持者たちの拍手は、もはや勝敗が決したことを祝う葬列の鐘のように聞こえた。


「……もう、無理だよ」


日向咲が膝をつき、汗まみれの顔で呟いた。王者の壁はあまりにも高く、琴爪ゆかりの「先読み」はあまりにも正確すぎた。自分たちが何をしても、その瞬間に未来を奪われる。その絶望的な徒労感が、六人の翼を重く、冷たく縛り付けていた。


その時、インカム越しに、凍てつくような、けれど魂を直接掴み揺さぶるような鋭い声が響いた。なおコーチだった。


「——あんたたち、何を見てるの? 目の前の巨人が大きすぎて、自分の足元も見えなくなったわけ?」


なおの声は、熱狂の渦の中でも驚くほどクリアになぎさたちの鼓動を叩いた。


「いい? 宇佐美いちかは神じゃない。琴爪ゆかりは予言者じゃない。あの子たちは、誰よりも『普通』を極めた、ただの人間よ。あんたたちが今やるべきことは、奇跡を祈ることじゃない。昨日まで、血を吐くような思いで繰り返してきた『基礎』を、この地獄の中で一ミリも狂わせずに実行すること。……翼が折れたなら、地を這ってでも音を繋ぎなさい。烏は、死ぬまで空を諦めないものよ!」


なぎさは、その言葉に弾かれたように顔を上げた。

(そうだ……。私は、いつの間にか『一撃で逆転する正解』を探していた。そんなもの、このステージには存在しないのに)


なぎさは、自身の腫れ上がった指先を見つめ、深呼吸をした。そして、隣で肩を震わせているみゆきの肩を、力強く、けれど優しく叩いた。


「……みゆき。もう一度よ。今度は高く跳ぶんじゃない。……一番低く、一番泥臭い場所で、私の音を待ちなさい」


みゆきが、涙を拭って頷く。彼女の瞳には、恐怖を通り越した、凄絶なまでの「執着」が戻っていた。


ぴかりが丘学院の反撃は、派手な旋律からではなく、地を這うようなリズムの再構築から始まった。

秋元こまちが、震える声を整え、最も基礎的な四拍子のリズムを刻み出す。夏木りんが、派手なステップを捨て、相手の音圧を全身で受け止めるための重厚なダンスへと切り替える。


「——あら、まだ抗うの? 見苦しいわね」


琴爪ゆかりが、再びなぎさの「次の一手」を潰そうと、嘲笑うような高音を被せてくる。だが、今のなぎさは、読まれることを恐れていなかった。


なぎさが叩き出したのは、変拍子でも不協和音でもない。教科書通りに美しく、あまりにも正確な「基本の旋律」だった。それはゆかりにとって、最も予測しやすく、最も退屈な音のはずだった。


ゆかりは、その「正解」を叩き潰そうと、確信を持って声を張り上げる。

だが、その瞬間、なぎさは鍵盤のタッチを、打鍵の瞬間にコンマ数秒だけ「遅らせた」。


「——っ、何!?」


完璧なタイミングで先回りしていたゆかりの音は、なぎさが意図的に作った「リズムの遅れ」によって、完全に空を切った。なぎさは論理で勝負するのをやめたのではない。論理を極限まで突き詰め、相手の「予測」そのものを、自身の「基礎」の微調整によって翻弄し始めたのだ。


「……なぎさ。その『普通』の徹底、最高に嫌な音ね」


月影ゆりが、なぎさの意図を汲み取り、地を這うような重低音を重ねる。

それは、いちかの放つ光の下で、影のように執拗に、王者の足元を侵食していく旋律だった。


王者の「白」に、ぴかりが丘の「黒」が再び混ざり始める。

それは一気に世界を塗り替えるような爆発ではない。けれど、一度混ざれば二度と拭えない、執念の染み。


いちかが、自身の光を遮るその「小さな抵抗」に、初めて苛立ちを見せた。彼女はさらに音量を上げ、すべてを焼き尽くそうとする。だが、なぎさたちは、その嵐の中でも、もう目を開けていた。


「——今よ、みんな! 烏の底力、見せてやりましょう!」


なぎさの合図とともに、六人が一斉に、それぞれの「役割」へと飛び出した。

咲とりんが囮となり、こまちとゆりが壁となり、なぎさが道を作る。

そして、その道の先に、最も泥まみれになった星空みゆきが待っていた。


みゆきは、いちかの声が空気を震わせるその「微動」を、指先で、肌で、髪の毛一本一本で感じ取っていた。彼女は、王者の光が最も強くなるその一瞬……誰もが「正解」だと信じる場所に、自身の汚れた翼を突っ込んだ。


「——あああああああああああっ!!!」


放たれたのは、美しくも何ともない、ただひたすらに、しつこく、泥臭い咆哮。

それは、ゆかりが閉ざしたはずの「未来」を、物理的な熱量で抉じ開けるための一撃だった。


支持率のメーターが、狂ったように痙攣し、ゆっくりと、けれど確実に「黒」の領域へと入り込んでいく。


スタジアムを支配していた絶望的な静寂は、今、なぎさたちが放つ不屈の鼓動によって、怒号のような歓喜へと書き換えられようとしていた。


宇佐美いちかは、自身のドレスに飛び散った、その「泥」の熱さに目を見開いた。

彼女がこれまで見下してきた「弱い土壌の種」たちが、今、王者の城の石垣を、その根っこで食い破ろうとしている。


烏たちは、空を飛ぶことを思い出したのではない。

墜落の途中で、地を這ってでも敵を喰らう「飢え」を思い出したのだ。


なぎさは、指先から流れる血を鍵盤に塗り付けながら、狂気的な笑顔を浮かべた。

「——さあ、宇佐美いちか。あんたの太陽、私たちが地獄まで引き摺り下ろしてあげる」


漆黒の翼は、スタジアムの光を浴びて、今、これまでで最も禍々しく、最も神聖な輝きを放ち始めた。

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