支配者の情熱、あるいは烏の視界
スタジアムを埋め尽くす歓声が、地鳴りのようにステージを揺らしていた。支持率のメーターは、もはやどちらが優勢とも判別できないほど、目まぐるしく白と黒を入れ替え続けている。美墨なぎさの喉はすでに限界を迎え、一息吸うごとに肺が焼けるような痛みを訴えていたが、彼女の脳内はかつてないほどにクリアだった。
宇佐美いちかが、ゆっくりと肩を上下させている。
絶対王者として君臨してきた彼女のドレスには、なぎさたちが跳ね上げた「泥」が確実に付着していた。彼女の歌声は、その完璧な調和を捨て、より原始的で暴力的な熱量を帯び始めている。それは、自分を脅かす存在を根こそぎ粉砕しようとする、王者の怒りそのものだった。
いちかは、ステージの最前列で肩で息をする星空みゆきを、じっと見つめていた。
(……なぜ、止まらない。なぜ、私の光に焼かれながら、なおもそんな目で私を見る)
いちかの胸の奥に、名前の付けられない感情が渦巻いていた。それは、これまで彼女が切り捨ててきた「弱者のあがき」に対する嫌悪ではなく、もっと根源的な、自分を脅かす「異物」をこの手で捩じ伏せたいという、剥き出しの支配欲だった。
「——ゆかり。もう、余計な装飾はいらない」
いちかが短く告げると、琴爪ゆかりは微かに笑みを浮かべ、自身のマイクを下ろした。王者のユニットが、いちかを輝かせるための「演出」をすべて放棄し、ただ彼女という最強の矛に、全エネルギーを注ぎ込むフォーメーションへと移行したのだ。
いちかが解き放った次の一音。
それは、それまでのどの旋律よりも重く、スタジアムの全空気を一箇所に凝縮したかのような破壊力を持っていた。なぎさが用意したすべての防壁を紙細工のように突き破り、観客の意識を強制的にいちか一人へと固定させる。
「——っ、なぎささん! 音が……音が、重いです……!」
秋元こまちの声が、その音圧に押し潰されそうになる。
だが、なぎさは笑っていた。
(……いいわ。それでいい。あんたが一人で全部を背負うなら、その『一点』だけを叩けばいいんだから)
なぎさは、限界を超えた指で鍵盤を叩いた。
彼女が選んだのは、これまでの連携さえも捨てた、自分とみゆきだけの、最短距離の「直結」。
「——みゆき! 私を信じて、飛ぶことだけを考えなさい!」
なぎさの指示に応じ、みゆきがステージの照明を蹴るような勢いで跳躍した。
いちかがそれを阻止しようと、自身の歌声の波形をみゆきの進路へと叩きつける。いちかの瞳には、みゆきを、なぎさを、ぴかりが丘学院のすべてを、その声で物理的に抑え込み、ステージの床へ叩き伏せたいという狂気が宿っていた。
しかし、みゆきが跳んだ場所は、いちかが予測した「正解」のさらに一歩先だった。
なぎさは、いちかの放つ圧倒的な音圧を、自身のコード進行で「利用」したのだ。いちかの声が空気を震わせるその振動を、自身の旋律の推進力に変え、みゆきの叫びを誰も到達できない高みへと押し上げた。
いちかの支配から、一瞬だけ、みゆきが「逸れた」。
「——あああああああああああっ!!!」
みゆきの咆哮が、いちかの頭上を、まるで黒い稲妻のように走り抜けた。
王者の視界が、初めて自分より「高い場所」にある存在を捉える。
いちかの瞳に、驚愕と、そしてそれ以上の、狂おしいほどの情熱が走った。
「……これだ。これだよ、私が待っていたのは……!」
いちかは、自分の喉が壊れるのも厭わず、みゆきの叫びに自身の全存在をぶつけにいった。
二人の、そして二つのユニットの、命を削り合うような旋律が、空中で激突し、火花を散らす。
スタジアムを支配していた「白」の世界が、みゆきとなぎさの放った「黒」の閃光によって、修復不能なまでに引き裂かれた。
支持率のメーターが、ついに「黒」の側で限界値を指し、エラーを吐き出す。
なぎさは、自身の指が動かなくなったのを感じながら、ステージの床に膝をついた。
隣では、みゆきが真っ白な灰になったかのような顔で、けれど満面の笑みを浮かべて倒れ込んでいた。
いちかは、自身のマイクを握りしめたまま、動かずにいた。
彼女の視界には、自分を打ち負かした小さな烏たちの残像が、焼き付いて離れなかった。
彼女がこれまで守り続けてきた「完璧」は、今、この泥だらけの不協和音によって、美しくも残酷に粉砕されたのだ。
「……私の負けだ」
いちかが静かに呟いたその声は、歓声にかき消されて誰にも届かなかった。
けれど、彼女を見上げるなぎさだけは、その言葉を、彼女の魂の震えとして確かに受け取っていた。
絶対王者の落日は、悲劇ではなく、新しい時代の産声として、スタジアムに響き渡った。
漆黒の翼は、太陽を食らい尽くし、その光を自身の羽へと取り込んで、誰も見たことのない、漆黒の夜明けへと羽ばたいていった。
なぎさは、震える手でみゆきの手を握り、空を見上げた。
そこには、自分たちが作り出した、最高に醜くて、最高に美しい不協和音が、いつまでも、いつまでも響き続けていた。




