孤高の指揮、あるいは断罪の理由
スタジアムを支配する熱狂の裏側で、琴爪ゆかりは自身の幼い頃の記憶を、ふっと思い出していた。
かつての彼女は、誰からも理解されない「異物」だった。彼女が口ずさむ旋律は、周囲の子供たちが好む童謡よりもずっと複雑で、どこか不吉な響きを持っていた。教師たちは彼女に「みんなに合わせなさい」と説き、友人たちはその「読みすぎ」な瞳を恐れて離れていった。彼女にとって、音楽とは他者と繋がるための道具ではなく、他者の内側を暴き、その醜い本音を旋律として引き摺り出すための、鋭利なメスだった。
「——ゆかり。君のその『毒』は、私の光をより際立たせる。そのまま、好きなように鳴らすといい」
暗闇の中にいた彼女を拾い上げたのは、宇佐美いちかだった。いちかの圧倒的な肯定だけが、ゆかりの「予測」を武器へと変えたのだ。
そして今、ステージの上。ゆかりは目の前で泥臭くもがき続ける美墨なぎさを見つめ、かつての自分と同じような「執念」を感じ取っていた。
「……ねえ、なぎさちゃん。君たちは『自分たちが変われば、世界が変わる』と信じているみたいだけど」
ゆかりが、ベースの弦を指先で弾き、紫色の不気味な残響をスタジアムに解き放つ。
「現実はそう甘くないの。君たちがどんなに新しい音を紡ごうとしても、私の指先一つで、それはただの『間違い』として処理される。……それが、積み上げてきた実力の差というものよ」
なぎさは、ゆかりの言葉に答える余裕すらなかった。宇佐美いちかの暴力的な光を遮るために、なぎさは自身の精神を削り、予測不能なタイミングで和音を叩き込み続けていた。しかし、その「予測不能」さえも、ゆかりの感性という名の巨大な網に絡め取られていく。
「——右ね」
ゆかりが囁く。なぎさが右側のスピーカーへと旋律を飛ばそうとした瞬間、ゆかりの声が先回りして、その空間の周波数を塗り潰した。
「——次は左。……あら、フェイント? 残念、中央よ」
ゆかりの「断罪」は止まらない。なぎさがリードするぴかりが丘学院の連携は、まるで透明な糸で操られているかのように、ゆかりの意のままに寸断されていく。星空みゆきが跳ぼうとする場所に、ゆかりの拒絶の音が待ち構えている。夏木りんと日向咲が駆け抜けるルートには、ゆかりの冷徹な低音が壁となって立ち塞がる。
「……っ、この人、本当に私たちの『脳内』を見てるみたい……!」
なぎさは歯噛みした。ゆかりは譜面を予測しているのではない。なぎさという奏者が、窮地に陥った際に「頼りにしてしまう癖」を、本能レベルで嗅ぎ取っているのだ。
支持率のメーターは再び、王者の圧倒的な勝利へと固定されようとしていた。観客は、ゆかりが繰り出す「絶対的な拒絶」の美しさに、一種の狂気を感じ始めていた。それは、何者も寄せ付けない、孤高の守護神による公開処刑だった。
「……もう、終わりにしましょうか。私の予測を裏切れない音楽なんて、聴いていても退屈なだけだもの」
ゆかりが、最後の審判を下すようにマイクを高く掲げた。 いちかの放つ黄金の絶唱と、ゆかりの放つ紫の断罪。その二つが重なり、ぴかりが丘学院の不協和音を完全に消し去ろうとした、その刹那。
なぎさは、あえて鍵盤から手を離した。
(……退屈? そう、退屈なのよね、あんたは)
なぎさは、視線をゆかりの瞳に固定したまま、背後の月影ゆりへと、音なき合図を送った。 なぎさが演奏を止めたことで、スタジアムに一瞬の「空白」が生まれた。予測のプロであるゆかりにとって、その「何もない瞬間」こそが、唯一計算できないバグだった。
「——え……?」
ゆかりの指が、初めて空を切った。 その空白に、月影ゆりが、自身の喉を物理的に破壊するような、この世のものとは思えない重低音を叩き込んだ。
「——なぎさ、今よ!!」
ゆりの叫びが、なぎさの指を再び鍵盤へと叩きつけた。 今度のなぎさは、ゆかりを「避ける」のをやめた。ゆかりが塞ごうとする場所に、あえて真っ向から、自身の感情のすべてを込めた不純な音をぶつけにいった。
予測されるなら、その予測ごと押し潰せばいい。 論理が通じないなら、暴力的なまでの「熱」で、ゆかりの感性を焼き切ればいい。
「——ああああああああああああっ!!!」
みゆきの咆哮が、ゆかりが作った「音の檻」を、物理的な熱量で内側から溶かしていく。 黄金の光と紫の影。その中心に、泥まみれの漆黒の炎が燃え上がった。
支持率メーターが、落雷に打たれたように痙攣し、「黒」へと大きく振れる。
ゆかりは、自身の唇から血が滲んでいることに気づいた。なぎさたちが放ったあまりの衝撃波に、自身のコーラスを強引に合わせようとした結果、身体が悲鳴を上げたのだ。
「……ふふっ、あはははは!」
ゆかりは、狂ったように笑い出した。 「面白い……最高に面白いわ、なぎさちゃん! 予測できない、理解できない、こんなに汚い音……もっと、もっと聴かせてちょうだい!」
王者の隣にいた冷徹な狙撃手は、今、なぎさたちが放った毒に中てられ、自分自身もまた、狂気の中へと足を踏み入れた。
第119話、孤高の指揮。 烏たちは巨人の指先を噛み切るだけでなく、その心臓に、消えない不協和音の種火を植え付けた。 スタジアムの嵐は、ここから制御不能な「共鳴の地獄」へと、さらに加速していく。
なぎさは、汗だくの顔で不敵に笑った。 「——さあ、ゆかりさん。あんたの『退屈』、私たちが地獄の底まで連れて行ってあげるわ」




