才能とセンス、あるいは頂の残光
照明の熱がステージの床を焦がさんばかりに降り注ぎ、空気は極限まで薄くなっていた。美墨なぎさの視界は、もはや一点の曇りもなく、対峙する日向大和の指先の震えさえも克明に捉えていた。支持率のメーターは、もはや機能していない。どちらの音が優れているか、どちらのダンスが完璧か。そんな次元の話は、数分前の爆発的な転調によって吹き飛ばされていた。今、この場所に残っているのは、ただ「どちらが先に足を止めるか」という、剥き出しの生存競争だけだった。
大和率いるユニットが放つ、最後のリフレイン。 あまりにも激しいパフォーマンスの代償として、大和の足元は僅かに揺らぎ、彼女のメンバーたちもまた、限界という名の絶壁に立たされていた。だが、大和の瞳だけは死んでいなかった。彼女は、ステージの最端へと、よろめきながらも全速力で駆け出した。
観客も、ぴかりが丘学院の面々も、一瞬その意図を測りかねた。そこはマイクの集音範囲からも外れた、演出用のライトさえ届かない暗がりの淵。しかし、大和はそこから、自身の喉が壊れることも厭わぬ、地を這うような重低音のロングトーンを放った。
「——まだよ! 私が……繋いでみせる!」
それは、大和という「天才」が、その輝かしいセンスのすべてを投げ打ち、ただの「泥臭い努力家」として放った執念の叫びだった。その声は、バラバラになりかけていた彼女のユニットを再び一つの生き物へと繋ぎ止め、アコが、そして他のメンバーが、最後の力を振り絞って中央へと飛び出すための「道」となった。
なぎさは、戦慄した。 日向大和という少女の真の恐ろしさは、その完璧な設計図にあるのではない。設計図が破り捨てられた後、自らの身を削ってでも「次の一音」を仲間に繋ごうとする、その底なしの献身にこそあった。
「……やっぱり、凄いよ。大和さんは」
なぎさは、鍵盤を叩く手を止めなかった。 大和が繋いだその熱狂のバトン。それがアコの咆哮となって、ぴかりが丘学院の頭上から降り注ぐ。秋元こまちのコーラスが弾かれ、日向咲と夏木りんが必死にリズムを食い止めようとするが、大和の執念を宿したその音の質量は、あまりにも重い。
支持率のメーターが、最後の力を振り絞るように大和側へと大きく跳ね上がった。 会場全体が「王者の勝利」を確信した、そのコンマ数秒の静寂。
だが、漆黒の烏たちは、まだ地に伏してはいなかった。
なぎさは、月影ゆりと視線を交わした。言葉は不要だった。ゆりが、大和の放った重厚な残響を、自身の肺が潰れんばかりの低音で受け止め、なぎさへと「反射」させた。なぎさはそのエネルギーを、指先ひとつで、前方を走る星空みゆきの背中へと叩きつける。
「——みゆき!! 飛べ!!」
なぎさの放った音は、もはや楽曲の旋律ですらなかった。それはただ、みゆきを未知の高さへと突き動かすための、鋭利な衝撃波。
星空みゆきは、自身の限界などとうに超えていた。筋肉は悲鳴を上げ、視界は真っ白に染まっている。けれど、なぎさから送られてきたその「一音」が、彼女の魂に火を点けた。みゆきは、重力に逆らうようにステージを蹴り、誰よりも高く、大和の黄金の光さえも踏み越える高度まで、その身を躍らせた。
空中。 みゆきの瞳には、必死に手を伸ばす大和の指先が見えた。 大和の瞳には、かつての自分を追い越していく、幼い烏の翼が見えた。
大和の脳裏に、古い記憶がフラッシュバックする。 「才能は開花させるもの、センスは磨き上げるもの」。 自分が信じてきたその言葉を、今、目の前の少女が、理屈を超えた衝動で証明しようとしている。
「……行け」
大和の唇が、音もなく動いた。
みゆきが、絶唱した。 それは、なぎさが導き出した、大和の王国の唯一の、そして最大の弱点——「正解を求めすぎるがゆえの硬直」——を、完膚なきまでに撃ち抜く、純粋な「間違い」の咆哮。
音の激突。 ホールの空気が震え、すべてのスピーカーが限界の悲鳴を上げ、そして……。
完全なる沈黙が、会場を包んだ。
ステージに落ちる、激しい汗の音。 なぎさは、膝をついたまま、頭上のメインモニターを仰ぎ見た。 激しく乱高下していた支持率メーターが、最後の数値を弾き出す。
——ぴかりが丘学院、勝利。
その文字が踊った瞬間、地響きのような大歓声がホールを飲み込んだ。 なぎさは、自身の指が痙攣していることに気づき、ゆっくりと握りしめた。勝った。あの完璧な王国を、自分たちの「不協和音」が塗り替えたのだ。
対戦相手の陣地では、大和が、膝を折ったまま動けずにいた。彼女の喉からは、もう一音も出てこなかった。全力を出し切り、すべてのセンスを使い果たし、それでも届かなかった現実。
アコが、悔しさに地を叩く。他のメンバーも、静かに涙を流していた。 大和は、震える手で自身のマイクを置き、ゆっくりと立ち上がった。彼女は、なぎさの方へと歩み寄る。
「……なぎさちゃん」
大和の声は掠れていたが、その瞳には、敗北の影を拭い去った、清々しいまでの光が宿っていた。
「私の言った通りだっただろう? 才能を、開花させたね」
なぎさは、大和の視線を真っ向から受け止めた。 「……あんたが、私をここまで引き摺り上げたのよ、大和さん」
二人の間に、握手はなかった。けれど、音を介して魂を削り合った者たちだけに許される、深い、深い沈黙の共有があった。
ステージを去る際、大和は一度だけ、遥か高みにある「ドーム」の幻影を見上げた。 「……次は、見てなさいよ。私の磨き上げたセンスが、あんたたちを絶望させるから」
その独り言は、誰に聞かせるものでもなかった。 けれど、舞台袖でそれを見ていた宇佐美いちかは、自身の胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
第107話、才能とセンス。 王者は敗れ、烏たちはさらに高く舞い上がる。 けれど、この結末は終わりではない。 漆黒の翼が掴んだのは、勝利という名の果実ではなく、さらなる強敵が待つ、果てしない空への片道切符だった。
なぎさは、泣きじゃくるみゆきを支えながら、再び歩き出した。 その背中には、もう迷いはない。ただ、次に鳴らすべき「音」だけが、彼女の心の中で静かに、けれど激しく鼓動していた。




