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翌日、つまり休日の朝、私は意を決して玄関ドアから出、エレベータホールのある方へ、拍動を高鳴らせながら歩いて行った。
元の竹中さん宅を過ぎ、そのもうひとつ隣へ。
先日私に話しかけて来た男性宅だ。その玄関先に立つ。
拍動はいよいよ高速になる。
一度深呼吸をし、私は玄関ドア横の呼び鈴を押した。
ピンポーン
オートロックのそれとは違う、軽めでカジュアルチックなチャイム音が響く。
しばらく、何の反応もなかった。
私は玄関先で直立したまま、留守なのか? 出直すか? まさか私の知らぬ間に、転出して行ったという事はなかろうな? 否もしそうであれば、奴はまた私の所に難なく戻って来る筈だ──否、一度汲み置き水という、奴に取って好ましからざる物、つまり死霊から見て穢れた物の存在が確認された所には、二度と行きたくない禁忌の場所として認定されるのだろうか? 等さまざまに思案を巡らせていた。
カチャ
唐突にその鍵は外され、ドアが開いて、以前少しだけ言葉を交わしたあの男性が姿を現した。あの時と同じ、紫色のスウェットを着ている。
「はい」少し驚いたように目を見開き私を見る。
「あ、突然すみません、あの」私はひとまずお辞儀をした。「先日、何か私にお訊きになりたい事があったようにお見受けして、あの、少し気になっていたのですが」仕事で電話対応をする時のように、よそ行きの声で私は話した。しかしよそ行きの声は、少し震え気味だった。「あの、もしかして夜中に変な音がする、とかでは、ありませんか?」
男性の目がますます大きく見開かれる。「あっ、はい、そうです」幾度も頷く。「やっぱり、その、お宅、様でもありましたか?」
お宅様とは私に対する敬称だろう──そう思うよりも早く、私は「はい」と大きく頷き返した。「あの、何か水を、飲むような」
「そ、そうです、そうです」男性は更なる頷きを繰り返す。「あれって、あれですかね、お化け?」そう言いながら、まるで子どもが泣き出す時のようにくしゃっと表情を歪めたので、私は思わず「いや、違いますよ」と答えそうになってしまった。
違うことはない。奴は、人だがお化けだ。
私は穏やかに、問題ないという雰囲気を保つよう心がけながら「多分そうだと思います……実は私の知り合いに、そういうのが視える人がいまして」昨夜、アプリに言いつけられた必要睡眠時間を一時間半も削り作成したシナリオ通りに、語った。
「あっ、そうなんですか」男声はまた目を見開き、取り敢えず泣きそうではなくなった。
「はい、その人に相談したところ、寝る前に台所に、コップに水を汲んで置いておくといいと言われまして」
「コップに、水」男性は瞬きもせず真剣に聞いている。
大事な所だから、ラインを引いておくように。そんな文言が脳裡に浮かぶが、今はそれどころではない。私は続けた。
「はい。私も半信半疑でやってみたんですが、本当に効果てきめんで、その日から一切、あいつ……あの音は聞こえなくなりまして」言葉が下卑たものになりそうなのを、両手を使ったジェスチャーでごまかす。
「本当ですか」男性は、目元に笑みさえ浮かべた。
「はい」私はまた深く頷く。「ですが、私の所から消えた音がまさかこちら様に来ていたとは思わず、お伝えするのが遅くなりまして、すみませんでした」
こちら様とはこの男性に対する敬称に聞こえるだろうか──そう思いながら改めて頭を下げる。
「いえ、いや、そんなことありません。教えて頂けて嬉しいです、さっそく今夜からやってみます。ありがとうございます」男性は、大層気の好い人物であるようで、満面の笑みを浮かべ幾度も頭を下げた。
「あ、いえ、それじゃ失礼致します」私も最後に微笑し、挨拶をして自宅へ戻った。
玄関ドアを開け中に入り、ドアを閉じ施錠する。
よし。
サンダルを脱ぎ廊下に上がりながら両手を握り締めガッツポーズをする。
あの男性は今夜から水をお供えして寝るだろう。
私はそれをしない。
そうすると奴は、水を求めて再び我が家へやって来るに違いない。
一人頷く。
後は、再び奴に相見えた時──と言っても姿は見えないが──どのように行動すべきか、更なる計画を構築する必要がある。
私は休みの一日を、死霊に対する行動計画に費やした。
◇◆◇
目を開ける。
闇の中だ。
すぐに目は慣れ、天井と壁を認識するようになる。
私は静かに横たわっていた。
スマホも取らない。
ひたすら静かに、それを待つ。
ジャー
水を出す音がした。
コポコポコポ
そっと、起き上がる。急に起きると音が止んでしまう事が想定されるので。
ゴク、ゴク、ゴク
思惑通り、キッチンの方からの音は止まず続いていた。
そろりと降り立ち、ゆっくりと、足音を忍ばせて数歩キッチンへ向かう。
ジャー
コップを洗う水の音が続く。
「今晩は」私は囁き声で訊ねた。「あなたは、竹中さん……ですか?」
その後何秒か待ったが、返事はなかった。
「あなたは、元ここの隣に住んでいた、竹中さんのご主人ですか?」今度は低い声でぼそぼそと訊ねる。
返事はない。
「今、ここにいらっしゃいますか?」
返事はない。
いつもコップを注いだ後に続くコップ立てにコップをかける音も足音も、聞こえてこなかった。
逃げられた──
私は落胆し溜息をついた。




