7(了)
翌日、翌々日と、私は対話を試みた。丑三つ時に水を飲む──筈の──奴との対話を。
しかしそれはいずれも徒労に終わった。
どんなに気をつけてそろりと立ち上がり、そっと近づいて声を殺し呼びかけても、例の音は常に進行途中で中断されてしまう。
三日目の晩にはもう、起き上がるのをやめた。
といっても対話の試みそのものを諦めたわけではなく、水を汲む音がしたところで、
「今晩は」
と、寝転んだまま声をかけることにしたのだ。
結果は、同じだった。
水は汲まれたまま、飲まれる事もなく、満足の吐息を生む事もなく、空になったコップが洗われる事もなく、すべてがそこで中断したのだ。
四日目、私はさらに改良を加えた。
水を汲む音がした時、
「今晩は」
と、寝転んだまま声を殺して囁いた。すると、
ゴク、ゴク、ゴク
なんと、丑三つ時に水を飲む現象が、継続されたのだ。
私は寝転んだまま息を呑み、目を見開いて暗い天井を凝視した。
ハ──
その吐息に釣り上げられるかの如く、上体を起こす。
ジャー
コップを洗う音。
急げ。
だが焦るな。
自分に厳しく指図しながら、床に降り立つ。
カチャカチャ
「竹中さん?」
さり気なく、いかにも不意に旧知の相手の存在に気付いたかのような、親しさと懐かしさと喜びをほんの一滴ずつ落とした色合いの声で呼びかける。
静寂が訪れた。
裸足でフローリング床上を歩く音は、続かなかった。
現象は中断したのだ。
私は独り、闇のキッチンを眺め茫然と立ち竦んでいた。
茫然としながらも、やはり奴の名は竹中ではないのだろうかと、そんな事を考察してもいた。
◇◆◇
里見さんに聞いてみるのはどうか。
業務中、突然私の脳裡にそれが閃いた。
素早くデスクの片隅に置いてあるメモパッドに走り書きする。
「里見さんにきく 話しかけ方」
それは今目の前にある業務にはなんの関りもない項目だが、目の前のデスクの上において、他の何よりも大きな重力を有するものだった。
昼休みまで待つ事すらできず、私は午前中に二度ほど、手洗いや飲料調達の体で自席を立った。
フロア内をぐるりと周回し、里見さんの姿を捜す。
里見さんのデスクは大体の位置しかつかんでいなかったのだが、当りをつけた場所に彼女はいなかった。二度とも、見つけることができずにいた。
とはいえ私のミニサイズのマインドからして、あからさまにきょろきょろと人を捜していますという態度を取ることもできず、さり気なく通路を程よい速度にて通過するだけなので、視野の内に目的物──つまり里見さんを捉えることができなかっただけかも知れない。人に限らず何かを捜す時というのは得てしてそのような状況に陥りがちだ。
さらにいえば、その辺にいる人に「えっと、里見さんはいますか?」と問いかけるなどもっての外だった。
「あー今ちょっと席外してますね。何かお伝えしときましょうか?」などと返された暁にはどう答えるのか。
「あ、じゃあ、幽霊に話しかける件でちょっと相談がありますとお伝え頂けますか」
とでも?
私はデスクに着座しPCに向かって首を振った。
昼休憩を待とう。
もしかしたら、今の私が身にまとっている『何かしら』を察知して、里見さんの方からまた同席を求めてきてくれるかも知れない。
これもある意味、幽霊のからむ悩み事なのだから。
昼休憩時、社員食堂にて私は生姜焼定食の乗ったトレイを両手に捧げ持ち、空席を探す体でその実里見さんを捜した。
見当たらない。
食堂は広く、利用人数も多く、定食を持ったまま隅から隅までを練り歩くのも難しい。歩いている途中に空席が存在しているなら猶更だ。空いているのに座りもせず、定食を持った女が食堂内をただ歩き回るというのは、それこそ怪奇な現象だ。
周囲の人間はそれほど他人の事を見ていないとは言われるが、否、意外と人は他者を見ているものだとも言われる。どちらが真実なのか判らないが、恐らくどちらも真実なのだろう。
そんな頭があるので精々がとこ十メートルばかりをきょろきょろしつつ歩いたのち、私はしおらしく空席に着き生姜焼定食を食し始めた。
里見さんはもしかすると、どこか外へ食べに行ったのかも知れない。
そうでないとしたら、今この食堂内において私が座っている席から見て対角線上遥か彼方に存在する席に着いているのか。
会いたい人は、いつも斜め向こう側にいる。
人生とは、そんなものだ。
そんな風に思いつつ、昼食を平らげる。
午後からの業務時間内、私は午前中と同じく二度ほど席を立った。
午前中と違うのは、里見さんに絶対に会える、話せる、相談できると決めてかかっていた午前中に比べ、ああもう今日は会えないのかも、話せないのかも、相談などできないのかも……とどこか倦怠感にも似た諦観が脳内信号の主流を占めていたことだ。
人生とは、そういうものだしな……
神が哀れをもよおして奇跡を起こしてくれることも当然なく、その日結局里見さんの姿を見ることはなかった。
◇◆◇
もしかして、本当に避けられているのかも知れないな……
そんな疑念が沸き起こるのをどうすることもできず、私は萎れた花のようにファストフード店で買ったチーズバーガーをもそもそと食べながら孤独なキッチンに座り込んでいた。
里見さんを是が非でも捕まえ話をするのだという欲望を漲らせた私がフロア内をそして社員食堂内を駆けずり回っている姿は、狂った鬼のように見る人の目には映ったかも知れない。そして霊感も強く賢明な里見さんはいち早く自分の身に振りかかろうとする厄災を予知し、巧妙な手段を使い身を隠したのだ。
私は舌打ちした。コーヒーを飲む。
舌打ちしたのは里見さんにでは決してない。
自分が阿呆過ぎて嫌になったからだ。
「たく」ポテトを三本指でまとめてつまみ頬張る。「ストーカーかよ」
口いっぱいに放り込んだポテトは噛み砕かれる事もなく、私はしばらくの間硬直していた。
自分で自分に向かい放った非難の言葉が、自分に刺さり動きを止めたのだ。
ストーカー……
恋愛関係に代表されるように、一方的に行われるコミュニケーションのことは「ストーキング」もしくは「ストーカー行為」と呼ばれる場合がある。
本日私が社内において、里見さんに対し行った行動は、まかり間違えば──否あるいは正真正銘そのまま、ストーカー行為と呼ばれてしかるべきものなのではないのだろうか?
首を振る。待て、と自分の手綱を引く。
ストーカーというのは、相手が拒絶しているにも関わらず執拗に接触を図る者を指していう言葉だ。私は別段、里見さんに拒まれたわけではない。
とはいえ里見さんが、何か霊感的なもので私との接触を避けたりしているとするとどうなのか? 否、それだけでははっきりと拒絶しているとはいえないだろう。単なるオカルト趣味上の態度に過ぎない。法的には拒否しているとは認められない筈だ。
私はもぐもぐとポテトの咀嚼を開始した。
里見さんの事は、それでいいとして。
奴は?
霊に語りかけ、反応なし。それが数晩続いている。
あの現象が途中でいつも止まるというのは、奴にしてみれば『対話を拒んでいる』ことの表意ではないのか。
私はいつも「逃げられた」という思いに駆られる。
つまり奴は、いつも逃げているわけだ。私の語りかけから。
語りかけを、して欲しくないのではないか。
私が毎晩行っているのは、霊に対するストーカー行為になるのか?
さすればかつての隣人竹中さんもまた夜中に、霊に対しストーカー行為をしていたという事なのか?
彼女は夜中にぶつぶつと何かを話し、お経を唱え鉦を鳴らし、盛り塩を置いていた。
そのうちお経と鉦は、亡き人への弔いだろうし、盛り塩は何かから家を護る為だろう。無論その対象が、あの丑三つ時に水を飲む奴なのかどうかは、わからない。
「しかしじゃあ、なんで奴は毎晩水を飲みに来るんだろう?」
独り呟いてポテトをつまもうとしたが、既に紙袋は空っぽだった。
コーヒーを飲む。
確かにそうだ。
語りかけられたくないのならば、来なきゃいい。
わざわざ嫌なことをされる、他所の家に──
待て。私はまた新たな仮説を思いつき、カップから口を離した。
他所の家。
という認識を、奴は持っていないのではないか?
ここを、もしかすると自分の家だと思っているのでは?
私がここに住み始めて五年が過ぎたが、奴はそれ以前からここに──このマンションにいた。竹中さん宅に。そして竹中さんが何年ここに住んでいたのかは知らないが、もしかするとその前の時代から、ここにいたのかも知れない。
そう、竹中さん宅が初めてではなく、彼女がここに住みつくよりも前から、奴は誰かの家で、丑三つ時に水を飲んでいたのかも知れない。
そうすると私などは奴から見ると最近越してきた新入りでしかなく、夜中に水を飲むという大切なルーティンをいちいち声かけで邪魔する難儀で迷惑な存在という風に位置づけられてもおかしくはない。
そこまで考えたところで眠気に襲われたので、私は手早くシャワーを浴びベッドに潜り込んだ。
ああ、そういえばこの所健康促進アプリを立ち上げていないな。
出し抜けにその事に気付く。
先ほど食したハンバーガーも、そういえば昼に社食で食べた生姜焼定食も、撮影していない。撮影することすら思いつかなかった。
ああ、私は健康的生活から逸脱し始めている──自堕落で不健康で情けない大人になっていくのだ──ストーカー行為までして──
そんな自虐的思考の後、私は入眠した。
ジャー
目を開ける。
コプコプコプ
天井をぼんやりと見る。
ゴク ゴク ゴク
天井を見ながら音を聞く。
ハ──
目を閉じる。
ジャー
そっと体を起こす。
カチャカチャ
床に立つ。
ト ト ト
「すいませんでした」私はキッチンに向かい頭を下げた。
足音はぴたりと止まった。
確かに止まった。そう思う。
いつも──というか初期に聞こえていたフローリングを裸足で歩く音よりも、それは短く感じられたからだ。
「すいませんでした」私はもう一度謝った。「怖がらせるつもりではなかったんです」
返事はない。
私は頭を上げた。
闇のキッチン以外、そこには何も存在していなかった。
独り、ベッドに戻る。
布団を被り、目を閉じる。それから右横に体を向ける。
ふうー、と長い息を吐く。
お経や鉦は、やらないだろうな。そんなことを思う。身内が亡くなったわけではないし。
あれは本当に、竹中さんの家族だったのだろうか。
まったく関係のない相手だが、死霊を慰めるために竹中さんが厚意でやっていたのか。
確かに家族だったら、玄関先に塩を置いて家を護ろうとはしないだろうしな。
塩、それも私は盛らないだろう。
嫌なら引っ越せばいいだけだ。
そしていつか私の後に誰かがこの部屋に入居し、丑三つ時に奴が水を飲みに来て驚かせ、恐怖に陥れ──
そういえば入居時、特段事故物件だという話も聞かなかったな。それはそうだ。奴が出ていたのはうちじゃなく隣だったんだから。
コミュニケーション、か……
そもそもアプリの言いなりになっていたからそんな事を求めることになったんだよな。死霊と対話を試みるなどということに。
全部アプリの所為だ。
もうあれは、削除しよう。うん。
そして私は自由という名の不健康を手に入れ楽しく暮らしましたとさ──丑三つ時に目覚めつつ──あれが続くんだから全然健康にはなってないしな──効果なし──ストーカー行為まで──
そんな諸々の思考の後、私は再入眠した。
◇◆◇
振り回されることはやめにしたが、あのアプリから学んだことというのはやはりあるもので、私はひとまず睡眠時間を──質はともかく取り敢えず時間をたっぷり取る事と、食事のバランスというものに一応ながら意識を向けるようにはなった。
対人コミュニケーション、人との対話については、ひとまず挨拶する時の声のボリュームを少し上げてみることにした。朝、洗面台の鏡を見ながら
「おはようございます、お疲れ様です、ありがとうございます」
と口を大きく動かして言ってみたりもする。
心なしかそれだけでも、人から心地好いリアクションを受けることができるようになったような気がする。気の所為かも知れないが。
夜中の水飲み現象は、いつか将来引っ越すまで放置する事にした。
音が聞こえるだけで特に苦痛をもたらすものではないし、時間にしても精々一分かそこらだ。水を飲むだけで帰って行くのなら、もうそういう事にしておけば良いと最近では思う。
里見さんは、どうやら退職なさったようだ。いつ辞めたのか、また退職理由まではわからないが、そうか、お元気で。としか言いようがない。美しい音叉の音を頂きありがとうございました。引っ張ってみてもそこまでだ。
◇◆◇
その休日のランチは、新しくオープンしたカフェに行きテイクアウトして来た。マンションに戻り、独り映画でも観ながら楽しもうと、心を弾ませつつエレベータを待つ。
チャイムが鳴り、エレベータのドアが開いた。一歩踏み出そうとする。
だが同時に中から降りて来る男性がいて、はっと身を引く。
相手──三十代位の男性──も、あ、と小さく声を挙げ一瞬立ち停まったが、私が後退するのを見てすぐに小さく頭を下げながら急ぎ降りて来た。
「今日は」私もほぼ囁き声位のトーンで挨拶をし小さく頭を下げ、そそくさとエレベータに乗り込んだ。
ボタンを操作しようと振り向くと、その男性も何故かこちらを振り向いており、エントランスから外に出るドアの方を指さして「あ、ちょっとコンビニ行って来ます」と呟くように言った。
「え?」眉を持ち上げ訊き返したが、男性はぺこりと頭を下げそそくさと外へ出て行った。
ドアが閉まり、エレベータが上がりだす。
三十代の男性──紺色のトレーナーにジーンズ、掃き古したオフホワイトのスニーカー。
見知った顔ではない。
同じ階に住む人では、ないと思う──それとも私が他人にあまり興味を持たないだけで、実はずっと前から近くに住んでいたのだろうか。
あれは一体、誰なんだろう。
了




