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丑三つ時に水を飲む  作者: 葵むらさき


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4/7

4

 私は帰宅後、いつもの夜ルーティンをこなし、寝支度に取り掛かった。

 寝支度。今日からその作業項目が、一つ増えることになる。そう改めて自分に言い聞かせる。

 私は食器棚からガラスコップを一個取り出した。水道から水を汲み、調理台の上に置く。ガラスの中で静かに揺れる水面をしばらく見つめた後、灯りを消しベッドに潜り込んだ。

 さあ、召し上がれ。瞼を閉じそんな言葉を心中に唱える。

 その水は、ある意味『おもてなし』だ。

 毎夜、奴が水を飲むのは、ただそうしたいからなのだろう。奴が死霊なのだとして、生前夜中に水を飲むのが習慣だったのか、または死を迎えた際「ああ、もう一杯水が飲みたい」と思いつつ亡くなったのか、あるいは、生前水を飲んでいたまさにその途中に、何かの理由で命を落としてしまったのか。

 いずれにせよ、奴は水を欲しているのだ。欲して止まないのだ。

 もしかすると今日の昼間、会社で若手社員が言っていたように「生き返る」ような気持ちになるのかも知れない。無論実際には水を飲んだくらいで死人が生き返ることはあり得ないが、霊である奴にとってはせめてもの『生き返ったような気分』が満たされるのかも──

 そう、奴は水を飲んで、生き返りたいのだ。

 だがこちらとしては、毎晩丑三つ時に怪異な音を立てられるのは甚だ迷惑である。

 なので、汲み置き水を供え、奴──彼には、願わくば静かに、水だけそっと飲んで密かに生き返る気分となり、静謐を攪乱することなく辞して欲しい。飽くまで静かに、穏やかに。

 私はコップ一杯の水に祈念し、眠った。


 数時間が経った。


 私は目を開けた。

 暗闇が見える。すぐに目は慣れ、自宅の天井、壁、窓のカーテン、棚、それらが次々に姿を現す。

 音は、なかった。

 私は体を起こした。キッチンを見る。

 まったくの静寂がそこに在った。

 その方を見据えたまま、手探りでスマホを取る。

 二時十五分。

 丑三つ時だ。

 私は今、丑三つウェイクアップをした。

 今宵も、それをした。

 そして今宵のそれは、無音の空間の中で行われた。

 静かなる丑三つウェイクアップだ。

 静かで、暗くて、何もなくて、誰もいない。

 普通の、丑三つ時だった。

 私は天井を向き強く目を閉じ、両手を固く握って突き上げた。歓声は挙げない。夜中なので。代わりにふう──、と天井に向かって長く息を吐いた。

 それからベッドに座ったまま、ひひひひひ、と眉をしかめ声を殺し肩を揺すって笑った。

 やった。闇の中で囁く。

 再び横たわり、目を閉じる。

 目を開ける。

 何事もなく、何音もしない。

 目を閉じる。

 物音もなく、人声もしない。

 目を開ける。

 いつまで経っても、ジャー、とも、コポコポコポ、とも、ゴクゴクゴク、とも、ハ──、とも、カチャカチャ、とも、ト ト ト、とも、聞こえない。

 ひひひひひ

 私は最後にもう一度声なき笑いを洩らし、眠った。

 勝利の夜だ。


 かくして私は『奴に勝ち』、無事平和な夜を取り戻すことができた。

 途中で目が醒めるとはいえ、睡眠に関する満足度は格段に上昇し、気分も晴れやかになり思考も前向きに、そう、すべてが良い方向へと向かっているのが自覚できた。

 折しも社内で里見さんに出会うことが数回あり、お互いに、陰影ひとつない爽やかで清浄な笑顔を見つめ合い明るく挨拶を交わすことができたのだ。

 きっと今彼女は、自分の音叉が人の役に立ったのだと喜びを感じているのだろう。そうだ。彼女は役に立ってくれたのだ。実質的には音叉の音で取りついていたものが撃退できたわけではないが、ただ汲み置いたコップの水がそれを成し遂げてくれたのも、もしかすると何かしらあの美しい音が影響を及ぼしていたからかも知れない。

 そんな事を考えられるほど私はすべてに対し肯定的になっていられた。

 ああ。すべて良し。

 私は笑うことが多くなった。もう少しすれば、もしかすると社内でも同僚たちとまた冗談を言い合うことができるようになるかも知れないと思った。


 そのような良い状況の中で何日か経った日のことだ。

 休日でいつものようにランチの調達をするべく玄関から出て、外で食べるか、買ってきて家で食べるかどうしようと考えつつドアに施錠していると

「あの」

と、声をかけられた。男性の声だ。

 顔を上げると、二つ隣、元の竹中さん宅を挟んだ向こう側の部屋に住む男性だった。名は知らず、すれ違いざまの挨拶以外に言葉を交わしたこともない。

「はい」

 私はドアの前で返事をし、エレベータがその方向にあるため男性宅の方へ歩いて行った。

 男性は玄関ドアのノブを片手で握ったまま私をじっと見た。私宅のドアが開く音を聞きつけ外に出てきて私に声をかけたようだった。紫色のスウェット姿で足許はスニーカーの踵をつぶして履いている。年齢は三十歳前後位だろうか。

「あ、えと」

 しかし男性は、私が近づくにつれ顔を俯けはじめ、小さな声でもごもごと言い淀んでいた。

「はい」

 私は男性宅のドアの少し前で立ち止まり、もう一度返事をした。

「あの」男性はもう一度私を見たが、すぐに視線を落とし「いや、やっぱり何でもありません」と早口で言い「すみません」と囁いた後部屋に引っ込んでドアを閉めた。

 私は再び歩き出した。結局その日のランチはコンビニ弁当となった。


 翌朝、仕事に行くため玄関を出てエレベータホールに向かう時、その男性宅の玄関ドアの左右下に、盛り塩が置かれてあるのを見つけた。

 ああ。

 そうか。いや、そうだろうとは思っていたよ。

 私は特に立ち止まることもなくいつも通りエレベータに乗りマンションを出た。

 そう、前日男性がもごもごと言いにくそうでありながらも、何かを訴えようとしてきた時、私は

「寝る前にお水を汲んで供えておいたらどうですかね」

と、答える準備をしていたのだ。

 結局男性は相談することを諦めたし──いきなりそんな話をして『要注意居住者』と判断されるのを怖れたのだろう──無論のこと私の方から、何も聞かれていないのにそんな奇妙で珍妙なアドバイスをするわけにもいかない。

 今まで通りすがりの挨拶しかしてこなかった相手と、そんな話題でお近づきになるというのも、正直あまり嬉しくない。

 しかし、もし男性が本当に寝る前に水を備えたとしたら、奴──丑三つ時に水を呑むあいつは、どうするのだろう。

 私は現在も勿論、毎夜水を『お供え』して眠りに就いている。それをやめる気はない。そうするとあの者はまた他の部屋、あるいは他の階などに移動していくのだろうか。

 それならずっと元竹中さん宅に居ればいいのにな。私は口を尖らせ思ったが、すぐにそれを否定した。元竹中さん宅はもう、水道が止められているのだ。もちろんあの者が呑む水は、現実の水道から出てくる本物の水ではない。だがなぜか、なんとなく、水道が止まっているところではあの者も水が飲めないのであるような気がした。

 こういうのを、毒気に中てられているというのだろうか。毒気というか、霊気に。

 それにしても。

 私はふと思った。

 怪異現象を撃退できた事で昇り詰めていた私の『テンション』が、時間の経つにつれ再び日常レベルに落ち着いて来たため、冷静に考慮することができるようになったのだ。

 水を飲んで生き返るような気分なり自己肯定感なりを満たすのが目的なのであれば、汲み置いた水を飲めばいいじゃないか? しかし奴はそれをせず、私の汲み置いた水を拒否し、二つ隣の男性宅に移って行ったのだ。

 それは要するに、水ならなんでもいいという訳ではない、という事か。

 奴は、汲み置いた水は飲めない、飲みたくないのだ。つまり、

「自分で汲みたかったのか」

 私は業務中に一人そのような事を呟いてしまっていた。

 幸い周囲から振り向かれる事も、何をですか、と問いかけられることも、特になかった。なので私も、何も呟いておりませんという態度で業務を再開したのだった。

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