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「お疲れ様ですー」同僚の里見さんが休憩室で声をかけてきた。
「あ、お疲れ様です」私はぼんやりとコーヒーの入った紙コップを前に置き座り込んでいたのだが、顔を上げ笑顔を作って軽く頭を下げた。
「前、座っていい?」里見さんはそう言い、私は快諾して向かい合わせに座る形となった。
珍しいな、とは思った。里見さんとは同じフロアで仕事をしているが、特に懇意にしていたわけでもなく、こうして個人的に休憩室のテーブルを挟むのもこれが初めてだ。
しかし同時に、ああ、そうか……とも思ったのだ。やはりか、と。
この里見さんという人については、いわゆる『視える人』なのだという噂を耳にする。霊感が強い、簡単なお祓いができる、というような、スピリチュアルマニア好みのゴシップに事欠かない人だ。
私自身は今までそういった話に興味がなかった──というか、敢えて持とうとしてこなかった──ので、特に里見さんに自分から話しかけたりなどはしたことがない。
だが、今、この『視える人』の方から近づいてきたということは、何やら私の身にそういったものが『視えて』いる、ということなのだろう。
なにがついているのだろうか。私の想像では六十代ほどの中肉中背の、頭髪の少し薄い男性ではないかと思うのだが。
「ねえ」里見さんは自販機で買ってきたらしい緑茶のペットボトルを置き、私を見ながら少し首をかしげ訊ねてきた。「最近、なんかつかれてない?」
「え」私は眉を持ち上げた。彼女は『疲れてないか』と言ったのだろうか、それとも『憑かれてないか』と言ったのだろうか。「私?」取り敢えず訊き返す。「あれ、なんで? なんかそう、みえる?」私自身も『見えるか』と訊いたのか、それとも『視えるか』と訊いたのか。
「うん」里見さんはまっすぐに私を見据えたまま頷いた。「なんか、なんていうか重い感じのものを纏ってるようだから」
「ああ」私は嘆息とともに声を挙げた。「すごいなあ」心から思ったまま言う。
「いや、私もそんなはっきり霊が視えるとかじゃないんだけどね」しかし里見さんはあっさりと噂の内容を否定した。「ただ、なーんとなく、雰囲気で感じるだけなんだけど」
「雰囲気」私は復唱しながら、ああ、六十代のおじさんが憑いているのが視えたから声をかけてきたわけではないのか……と理解した。「なんかつかれてる雰囲気出てた? 私」さすれば『疲れてないか』が正解ということか。
「うん」里見さんはもう一度頷いた後、少し眉をひそめた。「先週の木曜日から、なんか突然ね、暗い影を纏い始めてたから」
「木曜日──」私は瞳をきょろきょろさせた。
竹中さんが引っ越して行ったのは、先週の水曜日だ。
つまり、丑三つ時に我が家のキッチンで、水を呑む音が聞こえ始めたのは──まさに日をまたいだ木曜日、ということになる。
「うぁ……」私は口の端を引き下げた。「まじか」里見さんを改めて見返す。
彼女は身を乗り出すようにして、私からの『打ち明け話』を待っている。この人はやはり『視える人』だ。間違いなく。たとえそれが、霊そのものではなくとも、何かその人の雰囲気が変わったり『影』がまとわりついたりするのを『視る』のだ。
私は姿勢を正す気持ちで、今自分に起きている怪現象のことを彼女に説明した。ひそひそ声で。
里見さんは頷きながら真剣に聞いてくれた。「そうか……」そう言ったあと彼女は視線を落として少し考えていた。
私も、専門家というわけでもないだろうがわかってもらえる人に聞いてもらえたことで、肩の荷が大分下りた気がしていた。そして里見さんから、この怪現象から解放される良い手段を教示してもらえるに違いないという期待を抱かずにいられなかった。
「あのね」里見さんは私にそう声をかけた後、隣の椅子に置いていた彼女のバッグから、銀色に輝く物体を取り出した。
それは、私にとって見たことのない物だった。
全体が銀色、鏡のようで、形は太さ一センチほどの棒状──片方の端が二股に分岐し曲線を描いた後Uの字に広がっている。全長は二十センチあるかないか位だ。
「私、お祓いができるとかじゃ全然ないんだけど」里見さんはまた噂を否定した。「でも何かある時は、この音叉を叩いて、音でね、周りをちょっと浄めてるの」
「おお」私は初めて知る文化に心を揺さぶられながら目を見開いた。「音叉」吐息交じりに復唱する。
「よかったら今、やってあげられるけど」里見さんは小首を傾げて訊く。
「あ、ぜひ、お願いします」私は考えるまでもなく即座に依頼した。
そうだ。この人がそういうなら、きっと。
私は里見さんが椅子から立ち私の背後に回ってくるのを頷いて受け入れ、下を向いて目を閉じた。
そして里見さんは、私の肩の辺りで音叉を軽く叩いた。
コ──ン……
その音を、なんと表現したらよいのだろうか。
それはひたすらに美しい音だった。純粋な、混じり気のない、澄み切って真っ直ぐで、奥深い音。
里見さんがその音を鳴らしたのは一度だけだった。だがそれだけで、私の全身が文字通り清らかな空気に包まれたように、感じた。
私の周囲の空気が、洗われ、浄められたのだ。
休憩室にいた他の社員たちが振り返ったか、私たちのやり取りに驚いたり興味を惹かれたりしたのか、知らない。その時の私には取り沙汰するまでもないことだった。
きっと、これで解放される。
そう信じて疑わず、私は里見さんに深くお礼を述べた。
「これで様子を見てみてね」里見さんはそう言って柔らかく微笑んだ。
その晩私は、内心「お祝い」と称していつもよりも値の張る高級弁当をオーダーし、カロリー的には問題になるかも知れぬことには目を瞑って撮影後食した。
いざ就寝する時も、これからは毎日安心して眠れ、丑三つウェイクアップを経て気持ちよく目覚める事ができるのだと思った。
思うように、した。
地底から立ち上がろうとする黒い影には視線を合わせぬようにし、消灯して眼を閉じた。呼吸を数える。
そのようにして、睡眠を開始した。
ジャー
目を開ける。
コポコポコポ
ゴクゴクゴク
ハ──
ジャー
バシャバシャバシャ
カラン
ト ト ト ト
翌朝、私はいつも通り身支度をして玄関に施錠しエレベータに乗り出社した。
いつも通りに業務をこなす。
休憩時間には休憩室に行きコーヒーを飲んだり昼食を取ったりした。
その間特に個人的話で声をかけて来る者もなく、社員たちとは挨拶と業務関連の報連相でのみ言葉を交わした。
同フロア内のどこかに存在するはずの里見さんの姿はその日私の視界には入らなかった。たまたますれ違っていただけかも知れない。あるいは彼女が本日何らかの理由で欠勤しているのかも知れない。あるいは敢えて私と合わないように避けられていたのかも知れない。
あまりそうとは思いたくないものだが、万に一つ避けられているのだとしたら、それはどうしてだろう。私にまとわりついていた暗い影が綺麗に消え去ったので、もう自分に用はないと判断し立ち去ってくれたのか。
それとも、あの綺麗な音叉の音が何の効果も生まなかったことを察知し、気まずさの故に私に近づかぬようにしていたのか。
午後の業務にいそしみ、夕刻になりいったん小休憩を挟もうと、私は休憩室にてコーヒーをカップに注ぎ空いているテーブルへ持っていこうとした。
「あー喉乾いた」一人の若手従業員とすれ違ったが、その男性は外回りから戻ってきたところなのか、多少息を切らし汗も搔いているいるようだった。「水、水」彼はそう言いながら自動販売機でミネラルウォーターを購入した。
「水呑むの」彼の隣に来た同僚らしき別の男性職員が笑いながら言う。「お茶とか炭酸とかじゃなくて?」
「いやあ、喉乾いたときは水が一番だよ」先の男性職員も笑う。ぱしゅ、とキャップを回し開ける音がし、彼は一息に冷たい水を呑み下したようだ。「ぷはーっ、生き返るー!」満足そうな声が聞こえる。
私は無論彼らに背を向けた状態で空席に向かいつつそれらのやり取りを背後に訊いていたのだが、歩く速度が急激に遅くなり、最後の満足げな声で完全にぴたりと立ち止まってしまったのだった。
生き返る……
水で……
まさか。




