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帰宅した夜にはもう、隣宅はすっかり空室の様相を見せていた。
玄関ドア横の擦りガラス窓の向こうは真っ暗で、カーテンも取り払われ、家具や置物などの影も一切見当たらない。
「どうも、お疲れ様でした」
私は一人、意味のよくわからない労いを口にしながら隣宅を通り過ぎ自宅へ戻った。まさかこれが原因とは思えないのだが……
いつものように宅配弁当を受け取り玄関ドアを閉める寸前、配達係のお兄さんが誰かに「今晩はー」と声をかけているのが聞こえた。
その直後にドアを閉ざしたので、誰に挨拶していたのかはわからない。だがうちの前をまだ離れていない時、エレベータホールの方に体を向けながら挨拶をしていたのだ。
隣宅はもぬけの殻のはずだ。その向こうの部屋の人に挨拶をしたのだとすれば、私が聞いたその声量では小さ過ぎると思われた。あのヴォリュームでは二つ隣宅まで届かずろくに相手に聞こえないだろう。
そして私の部屋は角部屋、つまり元竹中さん宅と反対側には、隣宅というものがない。
あの配達員は、そうすると、あの時誰に挨拶していたのだろうか。
私は首を振った。
恐らく、マンションの管理会社の担当が、引越後の隣宅つまり元竹中さん宅をチェックしに来ていたのだろう。そう、残業して。
その結論に至った時、私は弁当を平らげていた。
入浴後、音楽を聴きつつ髪を乾かし歯磨きをし、さっさとベッドに潜り込んだ。十時二十三分。電灯を消す。
私はイヤホンを外し、目を閉じた。
どれくらい経ったのか──というと、約四時間経った時のことだ。
私はふと目を醒ました。
丑三つウェイクアップだ。
スマホを取り上げるのもだるい気がして、私は寝返りをうち目を閉じた。
静かだ。
もうお隣から、竹中さんのぼそぼそ声が聞こえることもないんだな……
ジャー
とつぜん音がした。はっと目を開ける。
コポコポコポ
これは、水を汲む音だ。コップに水を汲む音。
ゴク、ゴク、ゴク
そして、勢いよく水を呑む音。
ハ──
息をつく音。
ジャー バシャバシャ
再度水を出し、コップを注ぐ音。
カチャ
コップ立てにコップをかける音。
ト ト ト ト
フローリング床を裸足で歩く音。
そこまでを聞いて、私は体を起こした。
音は止んだ。
体を起こした私かいるのは、暗い、静かな、ひたすらに通常通りの空気を漂わせる自分の部屋だった。
上階の家の人が水を呑む音だったのだろう。
私はそう考えた。
静寂な夜中だから、普段の生活、日中においては聞こえることもない細かい音までが伝わってきたのだ。
そう、上の階の人だ。
そう思い、再びベッドに身を横たえた。
目を閉じる。
寝よう。明日の七時まで、あと四時間ちょっとほど。
どれくらい経ったのか──これはわからないが、再び眠りに就いてから恐らく数分かそこらぐらいだったろうと思う。
ジャー
私はがばっと身を起こし電灯を点けた。
音はぴたりと止んだ。
部屋は静寂に戻った。
ベッドから降り立ち、キッチンに向かう。
そこはひたすらに通常通りの、私の部屋の、私が使う、私が管理する、私のキッチンしかなかった。
水も出ていないしコップもない。そもそもうちではコップはすべて食器棚の中にしまってある。コップ立てというものは存在すらしていないのだ。
流しの中を見る。乾いており水滴一つついていない。
私はベッドに戻る前に、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し一口呑んだ。
ベッドに入る前、蛍光灯のスイッチに指で触れたが、なんとなくそれを消すことが躊躇われ、その後朝まで灯りをつけたまま、私は眠りについた。
水の音は、それきり聞こえなかった。その晩は。
「ねえ、聞いて。昨夜さ──」
そんな風に声高らかに話すほど懇意な同僚は、今の私にはもういない。過去にはいたが、相手が退職したり異動したり、なんとなく疎遠になったり──その後なんだか姿を見かけなくなったり──して、また私もそれ程人付き合いに積極的ではないので、今は気楽なお一人様といった立ち位置に落ち着いている。
加えて業務の方もそれなりに繁忙で集中力を要するため、誰にも話せなくて寂しいと思う暇はなく、件の丑三つ時の話題すら割と短時間で思い出さなくなってしまったのだった。
だが終業後バスに乗り自宅マンションの建物に入ると、件の話題は見る間に脳内を席巻し出した。
あの音は──上階の人だとしても──二度も続けて──灯りをつけるとぴったりと止んで──あれは一体──
私は一人脳内のその話題にばかり触れながらその晩も寝自宅をし、ベッドに横たわる前電灯スイッチを落とす所でふと止まった。
灯りをつけて寝ようか──
そのようなことを、数秒考え込んだ。
明るくしておけば、あの妙な音はしないのではないか。
しかし。
いい歳をした大人が変な物音がしておっかないから電灯をつけっ放しにして寝るなんて、あまり人に話せることではないように思う。無論誰に話すんだ、という自己突っ込みは入るが、そう、お天道様に顔向けできないという言い方もあるではないか。
消そう。
私はそうした。
明るいままだと健康的な眠りの妨げにもなるだろうし。
暗闇の中、目を閉じる。
マンション近くの線路上を、貨物列車がゆっくりと、カタン……コトン……カタン……と音を立てて通り過ぎて行く。
その音に、私は眠りへと導かれて行った。
ジャー
はっと目を開ける。
コポコポコポ
がばっと飛び起きて灯りをつける。
音は止んだ。誰もいない。流しは濡れておらず、コップも存在しない。何も起きていない。何も無い。
「誰っ?」
と叫ぶ気概は私にはなかった。真夜中だ。
電灯をつけたまま、私はベッドに横たわった。
目を閉じる。
時刻は見なくてもわかる。丑三つ時だ。
眠ろう。
このまま朝まで。
明るくしていれば、きっと何事もなく朝を迎えられるはずだ。
呼吸の数を数える。拍動がおさまってくる。
意識の波高が次第に低くなり、やがて直線になろうとする。
カチャ──ン
ガラスの割れる音がした。私は瞬時に飛び起きた。
キッチンを見る。何もない。
何も、割れていない。
いつも通りの、何も起きていない、普通のキッチンの光景だ。
ガラスでできた物体など、床のどこにも存在していなかった。
何秒、いや何十秒、もしかすると何分、私はその景色を見つめていただろう。
やがて我に返り、ベッドに戻ると再び横たわった。
目を閉じる。
呼吸を数え
カチャ──ン
再び飛び起きる。
誰もおらず、部屋にも変わりはない。
何もかもが、いつも通りだ。
無論ガラスの破片も存在しない。
「……何……」
ここに至り私はただそれだけを口にしたが、誰からも返事は返ってこない。
ベッドに戻り、腰かけ、私は蛍光灯をつけたまま横になり目を閉じた。
幸い、と言っていいものか、その晩はそれ以降特に何もなく朝を迎えることができた。怪異で、脅威で、迷惑千万な物音もなく。
だが翌朝、私は玄関ドアを閉めながらも困惑し続けていた。
どうしよう。どうすればいい。
こんな事になるとわかっていたら、なけなしの社交性と積極性とありったけの勇気をふり絞り竹中さんの連絡先を聞いておくべきだったか。マンションの管理会社に事情を話して元居住者の連絡先を開示してもらうか──否、個人情報をおいそれとは教えてくれるわけもない。それにそんな突拍子もない『事情』をいきなり話せば、要注意居住者と認定されることになりかねない。
本当にこんな事なら、何かの折にあの念仏や鉦の音や独り言や盛り塩について気さくに訊ねてみれば良かった。私はもっとアクティブに、アグレッシブに、エクスプロールすべきだったのではないのか。
何故訊けなかったのか。
私の気の弱さ故としか言いようのない事なのだろうか。
常識だけしか信じたくない。そういう思想に支配されてしまっていたからなのか。




