セイと死
今回、期待の1戦が幕を開けようとしていた。
ロシアvsタイ。
『最強』の中でも『最強』の敵を前にして比較的、軽傷で死合を終えた猛者同士の争い。
ヴィクトルとマエンの争い。
この戦争は偶然ではなかった。
ヴィクトルとマエンは1度だけ会って、言葉を交わしている。
その際、ヴィクトルがマエンと戦えば、なにか得れるのではないかと思い、組まれた死合なのだ。
だが、マエン・グウト......彼は全試合に勝利し、かつ、全選手を殺害している。
果たして、その決着はいかに。
その頃、ロシアの2人は大通りを歩いていた。
冷徹な殺人鬼と交戦するというのにだ。
その大通りは賑わっていた。
監獄に従事する者たちが酒を飲み交わす。
「ヴィクトルさん、こんなところにいていいんですか。すぐに試合でしょうよ」
審判が呆れたように言った。
「なぁ、見えてるか?」
唐突なヴィクトルの声色は審判に向いていた。
「なにがです?」
審判はツヤツヤに仕上げた坊主頭をおもむろに左右へ動かした。
「ほら、あの軍人が置いたグラス......握れば武器に、砕けば散弾にもなる」
「使える環境探しってことですか......!」
「ああ、俺にとっちゃ日常が訓練だ」
行住坐臥、それは日常であり、彼にとっては戦場だった。
明日、戦火に包まれてもおかしくないという有り得ないような予測。
これは『オランダ最強』ガイマスの姿を想起させる。
「なんか、ヴィクトルさんの隣に誰かいません?」
ガイマスがヴィクトルの隣に。
そう見えたのだ。
死んでもなお、意志を遺してくれている。
「環境に適応するっていうことはその地を踏んだ思いを拾い上げなきゃならないってことさ。俺は幾万の先人を引き継いで生きているんだ、当然、ガイマスもな」
突如、ヴィクトルを囲むように先人たちが一気に現れる。
登頂できずに落ちた登山家、海の未知に溺れてしまったスイマー、その他数々の道半ばで生涯を終えてしまった者たち。
幻覚なのではない、これが人の思いである。
「ヴィクトルさん......勝てますよ、これは!」
「ああ、当然な」
ヴィクトル・ストライプ、希望に満ちた贅沢な目をしていた。
一方、タイ。
マエンはジムで鍛えていた。
しかし、彼の周りに人はいない。
死を恐れているのだ。
マエンがサンドバックに右肘を放つ。
瞬間、サンドバックが破裂し、中から砂が飛び出る。
(ああ......閑だ。閑だ)
なんとも言えない感覚がマエンを巡る。
「マエン、ウォーミングアップだ」
老いた審判がリングに上がる。
「分かった」
マエンはほんの僅かに口角を下げながら、リングに入る。
「よし、始めるぞ。はいっ!」
その時、審判から人体をも砕く脚の左鞭が繰り出される。
位置は彼の右横腹に到達しようとしていた。
しかし、マエンはそれを避けられない。
いや......避けない。
その威力は深い。
次も右肘が来る。
だが、マエンが鳩尾へもらう。
この二撃だけでなく、あろうことか、全ての打撃を受けている。
肉体の強度を高める行為なのか、儀式的なものなのか、それは定かではない。
一つ言えることがある。
審判......いや、師匠の目には憤怒が宿っていた。
(その怒りはもっともだ。あなたはムエタイでの師であると同じく俺にとっての敵。そのあなたを越して俺が冠を授かり、甘んじて頂こう)
ただ、そこまで攻撃を頂いても、マエンには届きさえしなかった。
「はは......分かっていたさ。俺ではお前を倒すことはできないとな」
師匠は手を止めた。
「全てはあなたへの敬意だ。ムエタイを習っていた時でもあなたを殺れたが、そうはしなかっただろう?」
「悪い冗談だ。その頃のお前は殺しなどしなかった」
「国のためなら誰だって殺せる」
「それは国お......」
その時、そのリングに何かが落ちた。
耳だ。
しかも、それは師匠の右耳だ。
傷口から血がぼたぼたと垂れる。
「タイ国民にとっての禁忌。あなたもその1人だ、 分かっているはずだが?」
「なぜ、殺さない。不敬罪だろう?」
「次言えば首を飛ばす......殺さない理由、あなたが弱い、それでいい」
師匠の方も向かずにマエンはリングから降りた。
(やはりお前には、まだ善心がある。私は真のお前を諦めるわけにはいかないのだ)
師匠は何かを心に決めていた。
いよいよ、『進世界』は純粋な争いではなくなってきていた。
合理、思い、利得、心理、強弱。
その全てがごちゃまぜにされている。
いつ何が起きたって不思議じゃない。
監獄全体が戦火に包まれる時だってそう遅くないのかもしれない......




