夢はあなたを覗き込む 2
愛情ルミナがいた気がした。過ぎ去っていく建物と建物の隙間から、彼女の碧眼が僕を監視しているような。僕の姿をじっと見つめているような。その感覚の真偽を確かめる気など起こらず、僕はさらに足を速めて男子寮を目指した。
気のせいだ、いるはずない。こんな白昼堂々、公衆の面前で僕を殺しになんて来ないだろう。デメリットの方が大きい。そこまでイカレてはいないことを願わずにはいられなかった。
街路樹の影。マンホールの内側。露店の周りの人だかり。装飾店のショーウインドウ。僕の認識しえない死角に、果たして彼女は本当に潜んでいるのだろうか。内面の上澄みすら掬い取ることのできない殺人鬼の、血生臭い剣呑な気配だけが僕の産毛を撫ぜている。どこかに隠れて、次の獲物を探している。日中のツェレファイスなら安全という根拠のない楽観思考に身を任せることができず、そんな気がしてならなかった。面識のない金髪の女性とすれ違うたび、緊張で肩先がびりびりと痺れるような感じがした。
ふわりと金の三つ編みが翻り、銀の切先が僕の心臓をかき破る想像を、頭から追い出すことができない。どこかから鏃の錆びついた銛が飛来して、僕の喉笛を貫く悪趣味な連想ゲームを止められない。夢の住人が放つ殺気に、僕は中てられてしまっている。漫画のコマに描かれたキャラクターが腕を伸ばして、違うコマにいる別のキャラクターを鷲掴みにしているみたいに、僕は想像した。ユーモラスでナンセンスな仮定に縋らなければ、どうにかなりそうだった。
「嫌だ……死、死にたくない……僕は……僕は何も悪くない、何も……」
僕の所有する廃病院から徒歩で十分ほどの場所に、学園の男子寮はある。ベージュの外壁が特徴的な、四階建ての古びた集合住宅。その門扉わきの守衛室で学生証を提示し、守衛の男性から自室の鍵を受け取ると、僕は真っ先にエリオットの部屋へと走った。ドアをノックするが、反応が返ってこない。僕は玄関に踵を返し、彼の外出記録を守衛室に確認へ向かった。
「アルフレートじゃねえか」
守衛の男性が名簿に目を通しているところに、ちょうど目当てのエリオットが正門を潜って姿を現わした。
胸元の開けたグレーのカジュアルシャツにハーフパンツといったいで立ちで、足元は簡素なサンダルだ。きつめのコロンの香りを撒き散らしながら帰ってきたところを鑑みるに、十中八九そこらで女子生徒を思い付きでひっかけて遊んできた帰りか何かだろうと思った。
「お、おかえり」
「薬学科のカワイ子ちゃんと約束取り付けたってのにバックれられちまってさ。一人寂しく散歩にしゃれ込んだら、女子寮にえっらい豪華な馬車が停まっててよ。降りてきたのはとびっきりの美少女ときたもんだ。身なりも小綺麗に整っててさあ。後でアザレアを通してご尊顔でも拝みに行かねえか。転校生かなんかだと思うんだけど」
「ちょっと、時間いいかな」
僕は会話を遮ると、彼に詰め寄った。
「なんだよ、今度は野郎からお誘いか」
モテモテだなあ俺は。聞くに堪えないノロケを僕と守衛相手に語り聞かせながら、エリオットは外出名簿の帰宅時刻の欄に筆を入れた。
「二人だけで……その、話がしたいと思って」
「確かに今日は収穫ゼロの敗残兵だけどよ、気持ちは嬉しいがそっちの気はないぜ。それより、腹拵えしたら女子寮の方にでも行かねえか」
口を開けば軽口を叩き出すエリオットに、僕は僅かな苛立ちをおぼえた。真面目な話なんだと釘を刺しても、エリオットはいつも通りヘラヘラと掴みどころのない自分の恋愛論を語り出す。この男はいつもこうだ。僕がどんな状況に置かれているかも知らずに、一体何様のつもりなんだ。気障ったらしく髪の毛先を指でくりくりと弄ぶ仕草にすら、今の僕にはやけに腹立たしかった。幼馴染だからと思って調子良さそうに、僕の気も知らずに気分良く女性との逢瀬を披露してくるものだからたまらない。不道徳で不衛生な女誑しのくせに、他人を内向的だなんだと口出ししてくる彼の物言いは、いつにも増して忌々しく思えた。
どろどろした心境で彼の持論を聞き流しながら、僕は彼を半ば強引に寮の屋上へと連れ込んだ。
「手短に頼むぜえ、日に焼けちまうよ」
屋上において直射日光を防ぐようなものは、小高い足場の上に置かれた箱型の給水タンクの日陰くらいのものだった。エリオットはそそくさとそこへ走っていった。邪魔の入らないよう、その隙に僕は四階へ通じる階段を擁する建屋のドアノブを『槍』で破壊した。軽い音を立てて真鍮のノブが足元に落下し、転がるそれを茫然とした顔つきのまま、エリオットは目で追っていた。
「何……してんの?」
「聞きたいことがあるだけだ」
「じゃ、じゃあさ。ンなことする必要なくない? 俺そんなに信用ねえかな」
うろたえだす彼には悪く思うが、取るに足らない雑談をするつもりにはなれなかった。
「エルンスト・エックハルトという名前に心当たりはないか」
「は……はァ? だ、誰だよそりゃ」
「ないのか」
「心当たりも何も、そんな名前初耳だよ」
彼の二の句を待たず、僕はスマホを取り出して液晶を彼の目の前に突き付けた。初めて目の当たりにする未知の情報機械に目を丸くするエリオットを尻目に、僕は起動させておいたアプリで動画を再生した。アキヨシから送り付けられた、エルンスト・エックハルトが延々と陰謀論を語り続ける動画だ。事前にシークバーを操作してあり、エックハルトがしたり顔で不老不死の霊薬について滔々と口にするシーンから再生が開始された。
「この男が、エルンスト・エックハルトだ」
まじまじとスマホのエックハルトを凝視するエリオットは、当惑した様子で言葉を選びながら応えた。
「何なんだよ、誰なんだよコイツ……気持ち悪ぃな」
「心当たりは?」
「だから、無いって言ってんだろ。しつこいぞお前、コイツが一体なんだって言うんだよ」
「無いはず無いだろうよ……!」
僕はあまりに焦れったくて歯噛みした。握った拳が粘ついた汗で濡れ、行き場のない憤怒がいよいよ破裂しそうだった。図らずに零れた舌打ちと共に僕は四象の槍を形成し、そのうちの一つの鏃をエリオットに差し向けた。
「君が……コイツと関係がないはずないだろ」
「や、やめろ、やめろって!!」
途端に僕の目の前の優男は取り乱し始めた。腰が抜けたのか尻もちをついて、彼は日陰から無様に後ずさった。日光に照らし上げられ、色白なエリオットの素肌はよりまばゆく僕の眼に映った。
「本当のことだけ言えよ、しらばっくれたりするんじゃないぞ」
まるで被疑者を相手に取調べする刑事みたいだと、僕は思った。
「お、俺だってわかんねぇよ! わかるはずねぇだろ、鏡合わせみてえにてめえそっくりの変な男を見せつけられて、い、意味わかんねぇよ!!」
「わからないはず……ないだろ」
僕はエリオットと距離を詰めた。彼はさらに後ずさって、僕を見上げて中身のない弁解を喋り出した。苛々する。どうして僕はこの野郎とこれまで友人なんかでいたんだ? 女性を食い物にすることしか考えて居ない性犯罪者予備軍じゃないか。口を利くのも汚らわしい人間じゃないか。顔立ちが他人より多少整っているというだけで、このくだらない人間についていく女も女だけど、やはり異世界といってもこうした報われるに値しない人間が美味い汁を啜る構造というのは付き物みたいだ。挙句この男は保身に走って僕を煙に巻こうとしているのだから、見下げ果てた性根の持ち主だ。ただでさえ汚らわしい人間なんだ、だのに僕の望んだ答えすら持ち合わせていないなんて、道理が通らないだろ。僕がどんな目に遭ったのかも知らないで、こいつはポン引きみたいな売女目当てにフラフラ街を徘徊してたんだろうよ。
僕はエリオットに駆け寄り、表情を引きつらせる彼の長髪を掴み上げた。コロンの芳香が、より一層僕の神経を逆撫でしてきた。
「じゃあ何でもいい、僕に言ってない事、何でもいいから早く教えろ!! 絶対あるだろ、そこらで女を殺して隠したりしたんだろ!?」
「してねえ、してねえよそんなこと!」
「薄汚いレイプ魔らしくさあ、女を殺して回ってたんだろ!? 僕には全部お見通しなんだよ、女をレイプして殺すたびに女神のチートで死体を隠して警察の捜査を欺き続けてきたんだ!! そうだ、チートだ。チートさえありゃあなんだってできるよな、愛情ルミナに化けて、そう、お前がアザレアを殺したんだ! アザレアとアンナを殺して、いけしゃあしゃあと善人ヅラしやがってさ、ひ、ひ、卑怯な奴だよお前は!!」
「ひ、人なんか殺してねぇ、お前こそ何言ってんだよ。お前の言ってることが、何一つわかんねぇよぉ」
「そんなはずあるか、僕は僕の見たことだけを言ってるだけだ!! 僕は全部この目で見たんだよ、さっきだって僕を見てただろ、チートで愛情ルミナに化けて、気味の悪い幻覚を僕に見せて……僕をずっとストーカーしてた! 徒党を組んで僕を監視してた、集団で僕を尾けまわしてた!! アンナ殺しを見た僕を消すためだ! 僕は全部わかってるんだからな!! 僕が言ってることが信じられないのか、理解できないのか? それとも何か? 僕がイカレてるって言いたいのかよ、おい!! 女誑しのウソツキ野郎が、僕をペテン師呼ばわりするのか!? なあ!!」
僕の決定的な証言と剣幕に気圧されたのか、嘘つき野郎は必死に自分の身を守るように顔を手で覆う仕草をした。声を震わせて、彼は見苦しく嘔吐き混じりに命乞いを漏らし始めた。
「やめてくれ、乱暴しないでくれよお、俺がお前にケンカで敵うわけねぇじゃねえか……」
僕はそれを聞き流し、鏃の一つでエリオットの首筋に刃を走らせた。ごく薄く皮膚に傷口がぱっくりと開き、やがてそこから血が滲みだしてくる。その痒みを伴った疼痛から、彼は自分の身に何が起こったのか察したようだった。
「こ、殺さないでくれ、頼む、頼むよう。お、俺ぁ何も知らねえんだ、話せることなんて何にもねえんだ……!」
それだけなんとか口にすると、彼のハーフパンツの生地がじわじわと黒ずんでいった。情けなく失禁したこの男と密着していたくなくて、僕はエリオットを突き飛ばした。なおも彼はナメクジみたいに這いずって、僕と距離をとった。
「ずいぶん景気悪そうな顔してやがんだなあ」
頭上から、嘲笑するような男の声が周囲に響き渡った。振り向くと、そこには寮備え付けの給水タンク。その上部には、声の主である見知った顔が気怠そうに日光浴よろしく上半身裸で横たわっていた。半身を起こして、彼は設備から屋上へひらりと飛び降りてきた。
ドミニク・バルヒェット。発達した胸筋と腹直筋はいずれも小麦色で、低俗な物言いに反してその肉体に余分な贅肉は見当たらなかった。あの差別主義者は、下卑た笑みを浮かべて僕を一瞥した。
ハードカバーの本を片手に、彼はみすぼらしく這いずるエリオットを睥睨しながら、彼は下り階段へとつながるドアへと歩いていった。おもむろに、彼は前蹴り一発でドアを蹴破ってみせた。
「失せな」
ドミニクはエリオットを見下ろして吐き捨てた。不埒な助け舟に救われたと思ったか、エリオットはやおら立ち上がって、怯えた目つきでこちらを見やると、一目散に逃げ出していった。
「どうしたよお利口さん。ヤクでも切れたみてぇなひでえツラして」
ドミニクは、依然として笑みを湛えたままの猛禽類めいた目つきでこちらを見据えると、さぞかし可笑しそうに言った。
「あのオス犬に女でも寝取られたか? 日がな一日ママっ子みたいによ、節操なく囲った女に介護してもらってるもんなあ、お前」