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第9話 呪縛 了

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



刑務所の重々しい鉄格子の入り口で、下川慎介は立ちはだかる刑務官に声をかけた。


「本懐を、遂げたい」


低く乾いたその言葉に、刑務官の男は表情を変えず、ただ顎を小さくしゃくった。


「………認定証は?」


言われるがまま、本懐の認定証を見せる。

男はそれを手に取ると、軽く偽造がないかをチェックし、すぐに慎介に突き返した。


「あー、はいはい。どうぞ、中へ」


まるで面会の受付でもするかのような手軽さで案内され、慎介は無機質な灰色の廊下を歩き、別の部屋で待っていた担当の刑務官の元に連れて行かれた。


デスクを挟んで対峙したその刑務官は、書類に目を落としたまま尋ねてくる。


「下川慎介さん。本懐の内容は、【殺害】、で間違いないですね?」

「はい、間違いないです」

「対象者は?」

「丸山悟」

「………はい。では、具体的な『殺害方法』は?」

「……え?」


聞き返した慎介に、刑務官は心底面倒くさそうな顔を向けて、ペンをトントンと机に叩いた。


「ですから、どうやって殺すかです。刃物で刺す、鈍器で殴って殺す……他にも、まあ、考えられる方法はたくさんありますが。それによってこちらの準備も変わりますので」

「特に……決めてません」

「ふぅ…。それは困りますね」


刑務官は深い溜息をつき、ひどく困惑した様子で眉間を揉んだ。


「本懐法では第29条の規定で、刑務所内に本懐を遂げる場所を用意できることになってます。だから、あなたがどう殺すか決めてもらわないと、こちらも部屋の用意ができないんですよ。困るんだよな、こういう中途半端な申請は……」


刑務官の目には、同情もなければ、これから行われる殺戮への恐怖もない。

ただ、予算や業務の手間を気にしているだけ。

国の掲げる「感情の救済」の現場は、どこまでも冷徹な官僚機構の縮図だった。


「あの、普通の……国が死刑を執行するような、そういうのはできるんですか?」

「絞首刑、ということですか?」

「………そうです」


刑務官はそれまでの弛緩した様子から一変して、慎介の目をまっすぐに見据えた。


「可能ですよ。ただ、こちらは刑務所になります。死刑を執行するため設備は、拘置所にしかありません。ここから別の施設へ対象者を護送する手続きが必要になりますが、よろしいですか?当然スケジュールの都合もありますから、執行は数ヶ月、あるいは数年先になりますが」

「……ここでは、できない?」

「できません」

「……わかりました。……少し、考えます」

「お早めにお願いしますよ」


そう突き放すように言われ、慎介は一度、刑務所の重い鉄扉をあとにした。

車に乗り込み、慎介はただ無言でフロントガラスの向こうの空を見つめていた。

不気味なほどに綺麗だった夕日はもうすぐ地平線の向こうへ沈み、街に冷たい夜の帳が下りようとしている。

慎介はカーナビの画面を叩き、最寄りのホームセンターの場所を調べた。

車を走らせ、夜の店舗の明かりの中で、家庭用の三徳包丁を一本買い、すぐに刑務所へと戻って来た。

その包丁の重みを手にした慎介の指は、もう震えていなかった。


迷いは、どこにもない。


「戻られましたか。早かったですね」


刑務官が、慎介の手元にあるホームセンターのレジ袋を見て、小さく鼻を鳴らした。


「今、やると決めてましたから」

「そうですか。で、それで?刺すんですか?」

「はい。これで、丸山を殺します」


そう言って、ガサゴソと包装から取り出し、剥き出しの包丁をしっかりと握りしめる。


慎介は刑務官の案内に従い、蛍光灯が不気味に白く光る、刑務所の奥深くへと消えて行った。




──翌日、本懐を遂げ、慎介は自分の我が家へと帰宅した。

実際には、一週間ほどしか家を空けていない。

それでも、永遠に続く地獄の底を這いずり回って、ようやく戻ってきた。

そういう、気が遠くなるような実感があった。


玄関のドアを開ける。

家を出る前、晴海が狂ったように叫んでいたあの廊下は、今は嘘のように静まり返っていた。


「ただいま」


ぽつりと呟いて家に入ると、廊下の奥、二階へ続く階段の向こうから、カサカサと何かが擦れる小さな物音が聞こえてきた。


愛理の部屋からだ。


慎介は重い足取りで階段を上り、娘の部屋のドアを静かに覗き込んだ。

そこでは、妻の晴海が、愛理の学習机を熱心に雑巾で拭いていた。

棚の埃を払い、ベッドのシーツを整えている。


「なにを、してる?」


慎介は、喉の奥から震える声を絞り出し、妻の背中に問いかけた。


お前を狂わせた丸山は、もうこの世界にいない。


俺の手で殺してきた。


だからもう、お前は救われたはずだ。


あの笑顔に戻ってくれ。


慎介は言葉にできなかった。


晴海はゆっくりと振り返った。

そこには、二十五年前のあの温泉旅館の時のように、穏やかに、優しい笑顔があった。


「愛理が帰ってきた時に、お部屋が汚かったら嫌でしょ?」


慎介は答えられなかった。


丸山を刺した感触が、まだ右手に残っていた。


固く握りしめた拳は震えていた。


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