第8話 纏縛
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
ビジネスホテルの一室で、慎介はただ只管に時間を消費していた。
壁の時計が刻む無機質な音が、部屋の静寂をチクタクと削り取っていく。
あの裁判所の窓口で、己の手で申請用紙に書き込んだ【殺害】の二文字。
そして、あの地獄のような朝に耳の奥へ直接叩き込まれた、妻のあまりにも重たい言葉。
――殺せ。
その悍ましい二文字だけが、耳鳴りのように頭から離れない。
「……やるしかない」
洗面台の鏡に向かって吐き出したその言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあり、あるいは「本当にお前は人殺しになるのか」と問いかけているようでもあった。
言葉は繰り返し、繰り返し虚空に響いては、冷たい鏡の表面に吸い込まれるように消えていった。
「やるまで、帰れない。本懐を遂げるまでは」
慎介は、申請の際にあの無機質な申請補助者の男が口にした警告を思い出す。
『下川様、あなたは今後、本懐を遂げるまでご家族に会ってはいけません。万が一お会いした場合、あるいは三親等内の親族の住所等に立ち入った場合、その場で実行者としての資格は失効することになります』
『なお、今回申請されました本懐について、あなた自身が特別な執行期間等を設けませんでした。そのため、本懐を果たすまでが、あなたの執行期間になります』
――殺すまで、家には帰るな。
国からも、そして最愛の妻からも、そう突きつけられているようだった。
すべてを犠牲にして、血の道を歩むことを求められている。
申請から四日が経っても、慎介はホテルの部屋から一歩も出られずにいた。
コンビニの弁当を口に運び、ただベッドに横たわるだけの空白の時間。
「はぁ……」
夕方になり、なんの気なしにテレビの電源をつけた。
もはや、この閉ざされたホテルでの籠城暮らしが、慎介にとっての新たな日常になりつつあるのかもしれない。
そんな不条理な疑問すら、馬鹿馬鹿しいと思えないほどに、彼の精神は限界まで追い詰められていた。
『本日の特集は………』
画面の向こう、夕方のニュース番組で映し出されたきらびやかな映像に、慎介の目がふと留まる。
それは、緑豊かな山々に囲まれた、見覚えのある古い温泉旅館だった。
「……まだ、営業してるんだな」
画面をじっと見つめる慎介の脳裏に、二十五年も前の記憶が鮮やかに蘇る。
まだ若かった頃、幼い陽太と美冬の手を引いて、家族四人で背伸びをして泊まった温泉旅館だ。
当時はお世辞にも裕福とは言えず、家計をやりくりしてやっとの思いで出かけた初めての家族旅行だった。
「あの頃は……まだ、愛理は生まれていなかったな」
思い出すのは、剥き出しの悲劇ではなく、胸が苦しくなるほどに輝いていた家族の、温かい思い出ばかりだった。
何を見ても、何を聴いても、行き着く先は妻の笑顔だ。
子供たちの頭を愛おしそうに撫で、慎介の顔を見て、幸せそうにはにかんでいた晴海の顔。
「今度は……今度は、晴海と二人で行きたいな」
気がつけば、不意に涙が頬を濡らしていた。
喉の奥から、子供のような、情けない掠れ声が漏れる。
「………帰りたい」
ボーッと、まるで魂を抜かれた人形のように動かなくなった慎介は、涙の跡をつけたまま、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
翌朝。
慎介はホテルの駐車場で、愛車のエンジンをかけた。
どんよりとした重い空気が街を包んでいる。
「とにかく、今日、丸山のいる刑務所に行く」
娘を奪った犯人・丸山悟が収監されている刑務所は、県外の遠い場所にある。
高速道路に乗り、アクセルを踏み込む。
スピードを上げる車の中で、カーステレオのラジオから、偶然にも愛理が生前スマートフォンでよく好んで聴いていた、あの若い子向けのポップミュージックが流れ出してきた。
「……まるで、テーマソングだな」
自嘲気味に呟いた慎介の独り言は、高速で回転するエンジンの駆動音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
刑務所の高いコンクリートの壁の前に到着したのは、すっかり周囲が赤く染まった夕方だった。
よく晴れた、不気味なほどに綺麗な夕日。
車の窓越しに見えるその巨大な建造物は、すべての人間を拒絶するように、静かに、そして寂しげに佇んでいた。
「……ここか。どうする?今、行くか?」
慎介はハンドルを握りしめたまま、フロントガラスの向こうの鉄格子を見つめる。
周囲の厳かな静けさとは対照的に、カーステレオは無責任に、次の音楽を流し続けていた。
イントロのメロディが耳に飛び込んできた瞬間、慎介の心臓がどくんと大きく跳ね上がった。
「………これは」
流れてきたのは、愛理の曲ではなかった。
それは、晴海と結婚する前、まだ二人が恋人同士として付き合っていた頃に、カセットテープが擦り切れるほど繰り返し聴いた、古いラブソングだった。
晴海が一番好きだった曲。
結婚して、子供が生まれ、日々の生活に追われるようになってからは、めっきり聴かなくなっていた思い出の旋律。
「帰りたい……」
夕日に照らされた車内で、慎介の脳裏を満たしたのは、娘を殺した犯人への憎悪ではなかった。
ただひたすらに、笑っていた頃の晴海の姿。
愛おしい我が家の景色。
愛理の死から、すべてが始まった。
そして、晴海の「殺せ」という言葉で、自分の背中が動いた。
なぜ自分はここにいるのか。
なぜ自分はこれから人を殺しに行くのか。
「今、やる」
慎介の本当の『本懐』は、丸山への復讐などではなかった。
彼の本当の願いは
もう一度、あの頃の晴海の笑顔のもとに帰ること。
彼は車のドアを開けた。




