第1話 絶望
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
これでいい……
これでいいんだ……
一人の男が、薄暗い拘置所の一角で、コンクリートの壁にこびりついた茶色いシミを見つめながら、声を失った掠れた声でそう呟いていた。
「45番!」
重い鉄格子の向こうから、看守の鋭い怒声が響く。
自分の名前ではなく、ただの数字として呼ばれることにも、もうすっかり慣れてしまっていた。
ゆっくりと立ち上がり、冷たい鉄の扉の前に立つ。
「来い!」
ガチガチと耳障りな音を立てて手錠が嵌められ、腰縄で固く拘束される。
前を歩く刑務官の背中を追いながら、窓のない、ただ蛍光灯だけが白く光る冷徹な廊下を歩いていく。
自分の足音が、コンクリートの床に不気味に響いていた。
用意された面談室のような薄暗い部屋に入ると、厳格な表情をした刑務官が既に席に座って待っていた。
促されて、対面のパイプ椅子に腰を下ろす。
「川井基樹、本日、本懐実行者がここに来るという連絡があった」
刑務官の口から告げられたその一言に、川井の心臓がどくんと大きく跳ね上がった。
(………ああ、やっと死ねる)
それは、安堵のような、心のどこかでずっと望んでいた救いのようでもあった。
世間から生ゴミのように罵られ、生き恥を晒し続けるカウントダウンはこれで終わる。
しかし、いざその瞬間が現実の足音として近づいてくると、生き物としての本能的な恐怖が、冷たい手汗となってじっとりと滲み出てくる。
「…………わかりました」
川井は乾いた喉を鳴らし、かろうじてそれだけを答えた。
「今から、通常房ではなく別室の特別独房で待機することになる。それと……」
刑務官は手元の書類に目を落とし、少し怪訝そうな、憐れむような目を川井に向けた。
「実行者側からの強い要望により、本懐が執行される間、お前には食事等は一切与えられない。水もだ。いいな?」
「はい。構いません」
どうせ死ぬのだ。
最後の晩餐など必要ない。
川井は深く考えることもせず、ただ静かに頷いた。
──今から数ヶ月前、その事件現場は凄惨を極めていた。
青く澄み渡った秋の空。
そこは、本来であれば、誰もが笑顔で一生の思い出を作るはずの、修学旅行の旅先だった。
その平和な観光地の駐車場に、川井の運転する白い大型車が、猛スピードで高校生の一団へと突っ込んだのだ。
そこには、平和だった修学旅行の空気を一瞬で壊す、衝撃音と悲鳴だけが残った。
『現地からの中継です!まだ凄惨な血痕が生々しく残る現場の駐車場では、現在も警察による実況見分が続いており……』
『病院に緊急搬送された高校生7名のうち、4名の死亡が先ほど確認されました……』
『続報です。先ほどICUで治療を受けていた男子生徒1名の死亡が新たに確認されました。これにより、死亡者は計5名となります。もう1人の重体の高校生は、現在も緊迫した手術が続いているとの情報が………』
その日の夕方から、すべてのテレビ局、すべてのインターネットニュースは、この無差別殺傷事件を一斉にトップニュースとして取り上げた。
画面の中で明滅するテロップが、被害の大きさを残酷に物語っている。
『なお、確保された犯人の川井基樹容疑者も命に別条はなく、現在取り調べを受けています』
『周辺の防犯カメラの映像から、川井容疑者の車は時速130キロを超える速度で、歩行者に向けて一直線に加速していたことが判明しました』
『現場にブレーキ痕は一切なく、警察は殺人事件として捜査しているようです』
ワイドショーの画面の向こうで、アナウンサーたちが険しい表情で捲し立てる。
そうやって、犯人である川井の圧倒的な凶悪性と不条理さが、日本中で特にクローズアップされ、世論は激しい怒りに包まれていった。
死亡5名
重体1名
重傷1名
軽傷1名
これが「被害の差」が生まれた瞬間だった。




