↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/89

第1話 絶望

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



これでいい……

これでいいんだ……


一人の男が、薄暗い拘置所の一角で、コンクリートの壁にこびりついた茶色いシミを見つめながら、声を失った掠れた声でそう呟いていた。


「45番!」


重い鉄格子の向こうから、看守の鋭い怒声が響く。

自分の名前ではなく、ただの数字として呼ばれることにも、もうすっかり慣れてしまっていた。

ゆっくりと立ち上がり、冷たい鉄の扉の前に立つ。


「来い!」


ガチガチと耳障りな音を立てて手錠が嵌められ、腰縄で固く拘束される。


前を歩く刑務官の背中を追いながら、窓のない、ただ蛍光灯だけが白く光る冷徹な廊下を歩いていく。

自分の足音が、コンクリートの床に不気味に響いていた。


用意された面談室のような薄暗い部屋に入ると、厳格な表情をした刑務官が既に席に座って待っていた。

促されて、対面のパイプ椅子に腰を下ろす。


「川井基樹、本日、本懐実行者がここに来るという連絡があった」


刑務官の口から告げられたその一言に、川井の心臓がどくんと大きく跳ね上がった。


(………ああ、やっと死ねる)


それは、安堵のような、心のどこかでずっと望んでいた救いのようでもあった。

世間から生ゴミのように罵られ、生き恥を晒し続けるカウントダウンはこれで終わる。

しかし、いざその瞬間が現実の足音として近づいてくると、生き物としての本能的な恐怖が、冷たい手汗となってじっとりと滲み出てくる。


「…………わかりました」


川井は乾いた喉を鳴らし、かろうじてそれだけを答えた。


「今から、通常房ではなく別室の特別独房で待機することになる。それと……」


刑務官は手元の書類に目を落とし、少し怪訝そうな、憐れむような目を川井に向けた。


「実行者側からの強い要望により、本懐が執行される間、お前には食事等は一切与えられない。水もだ。いいな?」

「はい。構いません」


どうせ死ぬのだ。

最後の晩餐など必要ない。

川井は深く考えることもせず、ただ静かに頷いた。



──今から数ヶ月前、その事件現場は凄惨を極めていた。


青く澄み渡った秋の空。

そこは、本来であれば、誰もが笑顔で一生の思い出を作るはずの、修学旅行の旅先だった。


その平和な観光地の駐車場に、川井の運転する白い大型車が、猛スピードで高校生の一団へと突っ込んだのだ。

そこには、平和だった修学旅行の空気を一瞬で壊す、衝撃音と悲鳴だけが残った。


『現地からの中継です!まだ凄惨な血痕が生々しく残る現場の駐車場では、現在も警察による実況見分が続いており……』

『病院に緊急搬送された高校生7名のうち、4名の死亡が先ほど確認されました……』

『続報です。先ほどICUで治療を受けていた男子生徒1名の死亡が新たに確認されました。これにより、死亡者は計5名となります。もう1人の重体の高校生は、現在も緊迫した手術が続いているとの情報が………』


その日の夕方から、すべてのテレビ局、すべてのインターネットニュースは、この無差別殺傷事件を一斉にトップニュースとして取り上げた。

画面の中で明滅するテロップが、被害の大きさを残酷に物語っている。


『なお、確保された犯人の川井基樹容疑者も命に別条はなく、現在取り調べを受けています』

『周辺の防犯カメラの映像から、川井容疑者の車は時速130キロを超える速度で、歩行者に向けて一直線に加速していたことが判明しました』

『現場にブレーキ痕は一切なく、警察は殺人事件として捜査しているようです』


ワイドショーの画面の向こうで、アナウンサーたちが険しい表情で捲し立てる。

そうやって、犯人である川井の圧倒的な凶悪性と不条理さが、日本中で特にクローズアップされ、世論は激しい怒りに包まれていった。


死亡5名

重体1名

重傷1名

軽傷1名


これが「被害の差」が生まれた瞬間だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。