第3話 乖反
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
「康二!来なさい!」
江島巴代は、息子の康二を車へ押し込むと、アクセルを踏み込んで、車を急発進させた。
その音は日暮れの住宅街に響いたが、もう一人の息子、慶一がこちらを追うには時間があるはずだ。
とにかく捕まってはならない。
今、康二の兄、慶一は妻と話し合っている。
――いや。
話し合いなどではないが、とにかく引き留めている。
この機会を逃せば、慶一は康二を殺してしまう。
「母さん!こんなことしたら──」
「いいから!黙って!」
慶一が本懐の申請をしてしまった。
あれほど周囲が止めたのにも関わらず。
私も止めた。
嫁も止めた。
それでも、あの子は申請した。
父親を殺された息子として。
そして、その父を殺した弟を殺すために。
「いい?康二?航空券は私が予約してある。逃げなさい」
「いや!でも──」
「逃げなさい!逃げて!生きなさい!」
兄の慶一は絵に描いたような優等生だった。
勉強は人一倍した。
運動もできた。
塾に通わせ、ピアノも習わせた。
その全てを卒なく熟す『いい子』だった。
弟の康二は不思議な子だった。
勉強は兄ほどしていなかったが、なぜか成績は悪くなかった。
運動はやりたがらなかったが、なぜかやらせればそれなりにできた。
塾はサボりがちで、ピアノ教室なんて体験だけして行かなくなった。
だが、ピアノを弾く兄の見様見真似で弾いてしまう。
全てを兄の後ろから見ている子、そんな印象の子だった。
「いい?逃げるの。逃げて、生きて。お願いだから」
「………母さん、ごめん」
「今更なにを謝るの?父さんは死んで、兄弟で殺し合い?私は!そんなの望んでない!!」
車を運転しながら泣き叫ぶ巴代の手に力が入る。
細い指で力いっぱいハンドルを握り、バックミラーを確認しながら、高速道路を走っていく。
「だから、逃げるの!仲良くなんかしなくていい!どっちも死なないでほしいだけ!」
康二はその言葉に黙って窓の外を見た。
夕暮れの街が、後ろへ後ろへと流れていく。
兄から逃げている。
自分を殺しに来る兄から。
けれど康二には、それがどうしても現実のことには思えなかった。
昨日まで、兄だった。
それが今は、自分を殺すために追ってくる。
「……兄さん」
小さく呟いた声は、車内に消えた。
巴代は何も答えなかった。
答えられなかった。
母親である自分でさえ、もう二人を同じ場所に置いておくことができない。
父親を殺した弟。
その弟を殺そうとする兄。
家族だったはずの二人が、家族でなくなっていく。
(母さん、ごめん)
康二は何も言えなくなり、空港に着くまで無言だった。
「なんでこんなことに……」
そうやってずっと呟く巴代の言葉は、康二には聞いていられないほど重くのしかかった。
空港に着き、手早く手続きを済ませる。
あとは目立たないように出発まで待つしかない。
ソワソワと辺りを見渡し、慶一が来ないか、警官が来ないか、とにかく巴代は気が気でなかった。
搭乗案内の放送が流れる。
康二はその声を聞きながら、航空券を握りしめた。
行き先は決まっている。
けれど、そこへ行ったあと、自分がどうなるのかは何も決まっていない。
ただ一つだけわかっている。
ここに残れば、兄さんに殺される。
逃げれば、兄さんから逃げ続けなければならない。
どちらを選んでも、もう以前の生活には戻れない。
「母さん……」
そのときだった。
「こぉぉぉじぃぃぃ!」
慶一の雄叫びに巴代が反応する。
「ここにいて!」
そう言われて康二は柱の陰に身を潜めた。
──もう追いつかれた。
巴代は目一杯車を飛ばして空港にやってきたはずだった。
それでも追いつかれた。
「慶一………」
そう呼ぶ巴代の声に、慶一は怒りの表情を向けた。
「母さん!康二は!?」
「飛行機に乗った」
「はぁ?なんで!?」
「私にはあなたもあの子も同じ子供なの……」
「だからって!もう通報したんだ!妨害されてるって……」
「ええ、わかってる。だから、警察の方が一緒なんでしょう?」
慶一の後ろに数人の警官が控えている。
彼らは慶一に制止されて動かないだけで、それがなければ今にも巴代を捕まえようとしただろう。
「私は捕まってもいい。でもあの子の命は……ごめんね」
巴代はあえて自ら警官に近づき、両手を差し出した。
「あの子はもう逃げた。だから、あなたも引き返して……」
「ウソだ……なんてことを……」
巴代の両手首に手錠がかけられ、慶一は連れて行かれる母親のあとについて空港を出ていく。
そして、ふと空港を振り返ると、遠目に康二がいるのが見えた。
搭乗口に向かうのだろう。
「………え?康二……」
呟いた慶一の声を、巴代は聞き逃さなかった。
「待って!行かせて!これしかないの!」
警官を振りほどいて慶一に掴みかかろうとするが、巴代の細腕では振りほどけない。
「待って!」
「おい!動くな!」
転倒しても手を伸ばそうとする巴代の上に、警官が覆いかぶさって制止する。
「母さん!」
その様子を見て一瞬慶一は母の心配をするが、その間に康二は視界から消えてしまった。
慶一は走って空港に入り、入り口付近を探すが、康二の姿はない。
「康二……どこだ……!」
見当たらない。
慶一は目に入る範囲を探し回ったが、どこにも康二の姿はない。
「逃げるなぁぁぁあ!」
その声は空港のロビーに木霊した。
〜本懐法 第14条〜
資格の停止
本懐実行者の資格を一時的に停止する場合とは、第5条第2項第四号の行動開始日等が認定日と著しく相違していた場合において、その行動開始日時までの間に限る。
2 前項に定めるほか、対象者の再審手続の進行、国外への逃亡、これらの事由については本懐実行者の資格の停止し、又は当該資格に基づく義務を免除する。
3 前項に定める事由による場合を除き、対象者の意識不明、身体の著しい劣化、所在不明、行政による身分若しくは国籍の変更、心身の状態その他いかなる事由があっても、本懐実行者の資格を停止し、又は当該資格に基づく義務を免除しない。
4 第2項の規定により資格が停止された場合において、その事由が消滅したときは、本懐実行者の資格は継続し、本懐の達成義務は中断しないものとする。




