第7話 流転
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
認定証を手にした真琴は、電車を乗り継いで刑務所の最寄り駅を目指した。
誰よりも早く、自分自身の手で本懐を果たさなければ意味がない。
「ふふふ………」
婚約者を奪った犯人の曽我部聖志が収監されている刑務所は、県外の遠い場所にある。
認定証をバッグから取り出し、それを見つめて恍惚の表情を浮かべる。
他の乗客たちはその様子を見て顔をしかめ、いつの間にか彼女の周りから人は離れていった。
「……やっと帰ってきてくれる」
そう呟いた言葉は、揺れる電車の音にかき消えることなく、誰かの耳に入って車内の温度を下げた。
最寄り駅に着いたのは、すっかり日が傾いた頃だった。
もう後数刻もすれば太陽は赤く染まった夕日に変わるだろう。
薄曇りの空が、不気味なほどに鮮やかに光の筋を描いていた。
タクシーを停め、刑務所を目指す。
挙げた左手の薬指には婚約指輪が輝いていた。
「どちらまで?」
運転手に聞かれた真琴は、ニヤリと口角を上げた。
「刑務所。本懐を果たすの」
運転手はなにか嫌なものを見た気分になり、その後なにも話しかけることはなかった。
ただチラチラとバックミラーで覗く真琴の様子は、かなり異様に見えた。
「………ふふふ」
そうやって笑みを浮かべては、認定証を見つめている。
刑務所から最も近い駅という土地柄もあって、数回本懐を果たしに向かう客を乗せたことはある。
しかし、皆一様に青ざめていたり、真剣な面持ちだった。
笑顔を浮かべた本懐実行者に出会ったことはなかった。
「着きましたよ……お客さん、何があったか知らないけど、その様子じゃ………いや、いいか」
到着した運転手は何か言いかけてやめた。
──その様子じゃ、本懐を果たしても何も終わらないよ──
運転手はその言葉をのみ込んだ。
真琴の笑顔を見て、何を言っても変わらない様な気がした。
空から注ぐ夕日の筋が、刑務所を照らしているように見えた。
ただひたすらに、笑っていた頃の翔の姿。
あのプロポーズも、あの喧嘩も、あの付き合い始めた頃の幸福感も、全てここに繋がっている。
そう思えた。
自分がここにいる理由。
自分がこれから人を殺しに行く理由。
「翔を取り戻す」
彼女の本当の願いは、
もう一度、翔が自分のものであると証明すること。
離れていくタクシーに振り返ることなく、彼女は刑務所に歩いていった。
刑務所の重々しい鉄格子の入り口で、彼女は立ちはだかる刑務官に声をかけた。
「本懐を遂げたい。通してくれる?」
ニヤリとした笑みを浮かべた口元から出たその言葉に、刑務官の男は一瞬だけ表情を曇らせ、ただ顎で中を示した。
「………認定証は?」
言われるがまま、本懐の認定証を見せる。
男はそれを手に取ると、軽く偽造がないかをチェックし、すぐに真琴に返した。
「どうぞ、中へ」
入り口を通されて颯爽と中に消えていく。
彼女は無機質な灰色の廊下を歩き、別の部屋で待っていた担当の刑務官の元に連れて行かれた。
デスクを挟んで対峙したその刑務官は、書類に目を落としたまま尋ねてくる。
「根岸真琴さん。本懐の内容は、【殺害】、で間違いないですね?」
「はい、間違いないです」
「対象者は?」
「曽我部聖志」
「………はい。では、具体的な『殺害方法』は?」
「これで……」
刑務官が、バッグから取り出した包丁を見て、小さく鼻を鳴らした。
「これで、曽我部を殺す」
そう言って、包みから包丁を取り出し、剥き出しのそれをしっかりと握りしめる。
よく研がれた包丁は、部屋の蛍光灯の光を不気味に反射していた。
真琴は刑務官の案内に従い、刑務所の奥深くへと消えて行った。
──本懐を果たした真琴は、刑務所から出ると再びタクシーを停めた。
その表情はどこか晴れやかで、達成感に満ちたものだった。
「どちらまで?」
タクシーの運転手は、刑務所から出てきた人間にしては変わった表情だと思ったが、それ以上何も言わなかった。
「駅まで。今日中に戻りたいの」
どこ、とは言わない。
戻りたい──
ただそれだけだった。
家に着いたのは、深夜になってからだった。
裁判所に今日中に報告に行くのは無理そうだった。
「帰ってきたよ。私が仇を取ってあげた。婚約者の私が……」
真琴は翔と一緒に写る写真に向かって話しかける。
「これで、あなたは私だけのもの……永遠に、ずっと」
シャワーを浴び、布団に入り眠りにつく間もずっと、婚約指輪は左手の薬指にはめられたままだった。




