第6話 煩縛
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
一人、静かに家を出た慎介は、我が家の玄関のドアを背にしたまま、しばらくその場から動くことができなかった。
閉まった扉の向こうからは、まだ晴海の咽び泣く声が、微かに漏れ聞こえているような気がした。
妻のあの狂気に満ちた絶叫が、耳の奥から離れない。
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ――。
思い返せば、晴海はただそれだけを、呪文のように慎介にぶつけていたように思った。
これまでの三十年の結婚生活の中で、見たこともないような恐ろしい表情。
愛する娘を奪われた絶望が、妻をそこまで変え、狂わせてしまったのだ。
「…………やるしかないのか」
ぽつりと溢れた言葉は、冷たい冬の朝の空気に白く消えた。
ようやく重い足を踏み出した一歩は、まるで地面から何かが絡みついているかのように、ひどく重苦しかった。
玄関から離れるほど、家族から引き剥がされていくようだった。
愛車に乗り込み、震える手でエンジンをかける。
慎介はハンドルを握り、市内の裁判所へと車を向かわせた。
しばらく車を走らせていると、
「あ、………」
ふと、フロントガラスの向こうに飛び込んできた建物に、慎介の視線が吸い寄せられた。
それは、近隣では唯一の、古びた総合病院だった。
「あいつらは、全員あそこの病院で産まれたんだな………」
見慣れた白茶けた外壁を目にした瞬間、慎介の脳裏に、かつての温かい情景が鮮明に浮かび上がってきた。
──陽太は予定日よりずいぶん早く生まれたっけな。確か、ボーナス前で、出産費用をどう工面するか、金が苦しくて晴海と頭を悩ませたっけ──
──美冬は未熟児だった。保育器の中で小さな手を動かしていたあの子が、今ではあんなに元気になって……。まさか、あの泣き虫が警察官になるなんて、当時は想像もできなかったな──
─愛理は……そう──
「愛理の泣き声は………あの乳児室の中で、一番大きかったな。……離れた病室にいても、廊下を歩いていても、愛理の声だけは、すぐに分かった……」
思い出すのは、どれも愛おしい日常の記憶ばかりだった。
あんなに大きな声で生を主張していた娘が、冷たく暗い霊安室で、音も立てずに眠っていた。
視界が急激に涙で歪み、慎介はたまらず路肩に車を緊急停車させた。
「…………クソっ!」
ドンッ、と、慎介は溢れ出す涙を拭いもせず、強くハンドルを殴りつけた。
クラクションが無機質な悲鳴を上げる。
「どうして………どうしてこんなことになったんだ」
あのとき、都会での一人暮らしを許さなければよかったのか。
あの最後の電話のとき──
頭の中で答えのない後悔が縺れ合う。
「あいつらは……大丈夫だろうか」
本懐法については、ニュースやネットである程度知っている。
一度ここで申請を受理されれば、その後、本懐を完遂するまで、あの家に帰ることは許されない。
「晴海は……子供たちは………」
この先にある自分の道は、一体どこに続いているというのか。
この先に、またいつか、家族全員で笑って過ごす時間につながる未来があるのだろうか。
「晴海…………」
慎介は、自分に向けて「殺せ」と叫んだ妻の顔を、もう一度思い返す。
けれど、彼の記憶の底にある晴海は、いつも優しく笑っていた。
子供たちを抱いて笑っていた晴海。
テレビを見て腹を抱えて笑っていた晴海。
「おかえり」と玄関で迎えてくれた晴海。
そんな何気ない日々ばかりだった。
あの笑顔を、あの日常を、もう一度取り戻したい。
「こうするしか、ないのか」
慎介は涙を袖で乱暴に拭い去ると、再び車を走らせた。
やがて、目的地の裁判所へと到着する。
重い自動ドアをくぐり、薄暗い廊下の奥にある『本懐申請窓口』の前に立った。
立ち尽くす慎介に、横から静かな声がかけられた。
振り返ると、スーツを着た、落ち着いた佇まいの男が立っていた。
「私、申請の際の補助をすることになっております弁護士です。本懐の申請のご意思がおありでしたら、申請用紙にご記入ください。さ、こちらへどうぞ」
行政の冷徹なシステムへと誘うように、そう促されて、慎介は机の上に置かれた申請用紙にゆっくりと手を伸ばした。
その指は、かすかに震えていた。
〜本懐法 第7条の1〜
本懐申請の審査
申請を受ける機関は弁護士資格を有する者を申請補助者として、申請者に対する助言及び書面の作成補助に当たらせる。
また、申請補助者と別の弁護士資格を有する者を本懐確認者として選任し、申請の記載事項の全部及び添付書類の真正について審査を行い、申請の可否を決定させる。




