第5話 情縛
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
晴海を寝室のベッドに横にさせた陽太と美冬は、廊下に出て、押し殺した声で話をしていた。
「兄さんも、絶対に申請なんてしないでね」
「けど、母さんのあの様子じゃ、誰かが行かないわけにはいかないだろう………」
必死にすがるような美冬の視線を、陽太は突き放すように逸らす。
2人が話している間も、閉まったドアの向こうからは、晴海の掠れた泣き声が、呪詛のようにずっと響き続けていた。
「とりあえず、俺の部屋で話すか。今の母さんに聞こえていい話じゃない」
陽太がそう促し、2人は廊下の奥にある陽太の部屋に入る。
高校生の時から、家具の配置は何も変わっていない。
壁に貼られた、少し端が剥がれかけたアニメのポスターもそのままだ。
あの凄惨な事件が起きる前、まだ平穏だった頃の残骸が、そこには虚しく残っていた。
「お前はさ、自分が警察だから申請に反対なわけ?」
部屋のドアを閉めるなり、唐突に陽太がトゲのある声で切り出した。
「警察とか、そういう立場は関係ない。本懐法がどうあれ、やることは『人を殺す』んだよ?そんなこと、普通の人間がするべきじゃないよ!」
「愛理は殺されたんだぞ!あいつに、惨いやり方で!」
「それでも!それを理由に私刑を認めたら、ただの人殺しだよ!?」
「人殺しを、殺すんだ!何が悪い!」
それは冷静な話し合いなどではなかった。
互いの譲れない感情がぶつかり合う、ただの醜い言い合いだった。
「……私が警察だからじゃなくて……人として、普通のことだよ」
「チッ………それでも俺にはわかんねぇ。愛理は普通に死んだんじゃねぇ」
「………………」
「お前はさ、悲しかったのか。本当に」
バチンッ――。
静まり返った室内で、乾いた音が激しく響いた。
美冬の右手が、陽太の頬を捉えていた。
叩いた美冬の手も、叩かれた陽太の顔も、怒りと悲しみで小さく震えている。
「………兄さんに、私の何がわかるの」
涙で視界を滲ませながら、それだけを辛うじて呟いた美冬は、背を向けて乱暴に部屋を出て行った。
一人残された部屋で、陽太は赤く腫れ上がった頬を手のひらで押さえ、床を見つめる。
「……明日、俺がやる」
誰に聞かせるでもなく、陽太は静かに、けれど引き返せない決意を込めて呟いた。
自分が泥をかぶって人殺しになれば、母さんは救われるはずだ、と。
ベッドに座った陽太は、スマホに保存された家族の写真を眺めていた。
そこには庭先で撮った家族五人が笑う姿があった。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む、世界の悲劇など知らん顔をした、憎たらしいほどに眩しい太陽の光を浴びて、陽太は目を覚ました。
重い足取りのまま、誰にも気づかれないよう静かに玄関に向かう。
「陽太、どっか行くの?」
背後からかかった細い声に、靴を履こうとした陽太の体が凍りついた。
「陽太?どこに行くの?……帰ってきてくれるんでしょ?どこ行くの?」
恐る恐る振り向いた先にいたのは、寝室から出てきた、目を真っ赤に腫らした晴海だった。
その幽鬼のような姿に、陽太は言葉を失う。
「兄さん?まさか……申請に行くつもり!?」
晴海の声に気がついた美冬が、リビングから血相を変えて廊下に飛び出してきた。
「あ、いや………」
「ダメ!!なんでアンタが行くのよ!?アンタは人殺しになんてなったら絶対にダメ!!」
陽太が何か言葉を口にする前に、晴海は狂気を含んだ目で大きく見開き、陽太の胸ぐらを掴んで激しく詰め寄った。
「アンタは人殺しじゃない!アンタは……アンタは、私の自慢の、自慢の子なんだから………!」
息子を殺人犯にしたくない。その一心で泣き崩れる晴海の姿を、慎介は寝室の廊下から、ただ静かに覗かせて見ていることしかできなかった。
家族のために立ち上がろうとした息子の優しさすら、この家の中ではただの縺れを深める凶器になる。
しかし、泣き崩れていた晴海が、不意にガチガチと首を動かし、廊下に立つ慎介を睨みつけた。
その怨念の籠もった指先が、まっすぐに慎介を指さす。
「…………ねえ」
晴海の目が慎介を真っ直ぐ見つめる。
「……なんで、アンタ」
晴海の声が揺れる。
「なんで ……アンタが ……行かないの」
誰も何も言えなくなった。
「あの ……子を……あんな目に遭わせて …… 殺されて …… その父親が」
一語一語ゆっくりと、確実に、刺すように言葉が紡がれる。
「……行かないの?」
晴海は瞬きもせずに慎介から目を逸らさない。
「なんで! 行きなさいよ!!! ……殺せ!!殺せええええ!!」
晴海は、これまでの人生で一度も聞いたことのないような、喉を引き裂くほどの凄まじい声量で絶叫した。
その地獄のような絶叫は、どれくらい続いただろうか。
慎介の脳裏には、その時間がいつまでも終わらない、永遠の呪いのように思えた。
自分を人殺しになれと叫ぶ、最愛の妻。
その声は、三十年前、結婚式で愛を誓った声ではなかった。
「わかった。俺がやる」
低く、静かに一言だけ。
慎介はそれだけをリビングに残し、泣き叫ぶ妻と、立ち尽くす子供たちに背を向け、我が家を出た。
すべてを終わらせるために、家から出ていった。
〜本懐法 第6条〜
本懐申請の受付
本懐申請の受付は、次に掲げる機関のいずれかにおいて行う。
一 当該事件を実際に審判した地方裁判所
二 当該事件の上訴審としての高等裁判所
三 上告審としての最高裁判所
四 申請者の現住所を管轄する地方裁判所
五 申請者の現住所を管轄する地方検察庁




