第4話 累縛
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
丸山の対象者認定を受けて、私を取り巻く環境は一変した。
どこへ行っても、誰と顔を合わせても、ついて回るのは愛理の事件と『本懐法』の話題ばかりだった。
「下川さん、あの犯人、私はアプリでちゃんと認定に投票したよ。」
「愛理ちゃんの仇、絶対に討って下さい!」
「いや、申請なんてしたら絶対にダメだ! 国がなんと言おうと、お前たちの誰かが『人殺し』になるんだぞ!」
同情、正義感、あるいは野次馬としての好奇心。
周囲の人間たちは、私たちの傷口に土足で踏み込みながら、それぞれ好きなように言ってくれる。
彼らにとって、これは画面の向こう側のドラマに過ぎないのだ。
他人の雑音などどうでもよかった。
本当に縺れ合っていたのは、我が家の内側だった。
「お父さん!絶対にダメだからね!本懐の申請なんて、絶対にしないで!」
箸を置き、私を見た美冬の意見は、なんとも警察官らしいものだった。
彼女には、妹の無念よりも法を守ることの方が大切なように見えた。
合法だとしても「人を殺す側」に回るのを、彼女の理性は頑なに拒絶していた。
「愛理は、あんな男に、犯された…………それだけでも、耐えられないのに…………どうして、どうしてあの子が死ななきゃいけなかったの…………」
妻の晴海は、リビングのソファで膝を抱え、泣きながらうわ言のように同じ言葉を繰り返している。
その瞳からは、もう光が失われていた。
「なぁ親父、申請しないのかよ?世間じゃあいつを殺せって大騒ぎだぞ」
長男の陽太は箸で私を指しながら、感情の読めない声でそう言った。
あいつは本気で仇を討ちたいのか、それともこれ以上家族が壊れるのを恐れて申請したくないのか。
その表情からは何も読み取れず、中途半端な温度だけが部屋に漂う。
バラバラにぶつかり合う家族の視線を受け止めながら、私はただ、重い口を開いた。
「……………愛理は、帰ってこない」
私が口にしたその冷徹な事実が、冷水を浴びせられたかのように、家族を深い沈黙の底へと叩き落とした。
どんなに議論を重ねても、どんな法律が適用されようとも、失われた命が戻ることだけは絶対にないのだ。
夜の食卓で、いつも愛理が座っていた、誰も座っていない空席が、ひどく、惨いほど広く感じられた。
そのぽっかりと空いた空間が、私たちの間に冷たい静寂を広げていく。
箸を動かす音すら響く沈黙の中で、
「ねえ…………」
ふと、晴海が私に向かって声をかけた。
その声の低さに、空気がぴりりと張り詰める。
「申請してくれるんでしょ?殺してよ!あいつを!愛理は帰ってこないのよ!あんな惨い殺され方をして、あの子の無念はどうなるの!?殺してよ!お願いだから、あいつを殺して!」
晴海は椅子を蹴立てて立ち上がると、私の元へすがりつき、両肩を強い力で掴んで必死に叫んだ。
爪が肉に食い込むほどの痛みが走る。
しかし、妻の瞳の奥にある狂気は、それ以上の痛みを訴えていた。
「殺してよ!殺してよ!…………殺せ!殺せ!!」
悲鳴は、いつしか剥き出しの殺意へと変わっていった。
愛する娘を奪われた母親の心が、完全に崩壊し、狂っていく。
「母さん!」
「お母さん、やめて!」
その異様な様子を見て、陽太と美冬が慌てて私たちの間に割って入った。
「落ち着いて! ちょっと向こうの部屋で休もう、な?」
「そうだよ、お母さん。少し横になろう」
2人がかりで晴海を私から引き離し、リビングから連れて行く。
廊下の向こうへ消えていく妻の「殺せ」という狂った叫び声が、いつまでも耳の奥で鳴り響いていた。
静まり返ったリビングで、私は独り、自分のスマートフォンを開いた。
画面の中で光っているのは、冷徹な法律の条文だった。
〜本懐法 第4条の1〜
本懐申請者の範囲
本懐の申請を行える者は、次に掲げる者の1名に限る。
1、被害者本人
2、被害者の配偶者及び三親等内の親族
3、被害者の婚約者その他書面をもってその関係性を証明できる者
「1名に限る」その短い一言が、この家に残された者たちに、あまりにも重い十字架を突きつけていた。
妻をこれ以上の狂気から救うためには、誰かが人殺しになるしかない。
家族という解けない絆が、少しずつ解けていくように、あるいは絡みついて混沌としていくように感じた。




