第2話 微転
──ガチャ…
玄関のドアを開き、根岸真琴はマンションの部屋に入って電気をつけた。
窓際に置かれたベッド、まだ真新しいカーテンがかかり、テーブルには化粧道具が並べられている。
二人で買ったタンスの上には、二人が抱き合って写る写真が飾ってある。
傘立てに傘を入れ、靴を脱ぎ、マンションのすぐ隣にある幹線道路の車の音をかき消すように、テーブルの上にあるリモコンでテレビをつけた。
画面の向こうで、ニュース番組のキャスターが遠い県外の出来事を読み上げている。
やがて画面は切り替わり、地方局のニュースが始まる。
「ふぅ…………疲れたぁ」
腕を上げ、足を伸ばし、ベッドにもたれ掛かって、深い溜息をつく。
その時画面の向こうでキャスターがあるニュースを読み上げる。
『今日未明、駅前の繁華街近くで男女二人が襲われる事件があり、男性の藤倉翔さん28歳が死亡、女性も重傷を負い病院に搬送されました──』
藤倉翔。
その名前に真琴はビクッと反応して、テレビを凝視した。
──ウソだ。
顔をテレビ画面に近づけて、その内容を確かめる。
名前、年齢は間違いなく婚約者と一致する。
だが、同姓同名ということもあり得る。
真琴には翔が死んだなどということは、到底受け入れることなどできなかった。
「あり得ない………ウソよ……絶対……」
このときから真琴の人生は、少しずつ変わり始めた。
彼女の新しい明日、未来、それらはたった一人で迎えるものになったように思えた。
あまりにも突然すぎる。
ニュースが報じたその内容は、真琴を深い闇の中に突き落とすものだった。
『ねぇ、私と付き合ってほしいんだ』
目を閉じれば、真琴が翔に気持ちを伝えた時の光景が浮かんでくる。
目を引くほどの美人ではないが、容姿は気にかけていた。
少なくとも社内では、かなりマシな方という自覚もあった。
翔は取引先の社員。
真琴より三歳年下で、真面目そうに見えた。
仕事を共に進める関係から、お互いに意識するようになっていた。
『え?あの、でも……仕事もありますし、一旦返事は待ってもらえますか?』
頬を赤く染めてそう答える翔が、とても可愛く見えていた。
それからも仕事のたびに翔と顔を合わせた。
そして仕事が一段落すると、翔は真琴に返事をした。
『よろしくお願いします』
駅に向かう道。
そこで返事をもらった真琴は、その場で翔に抱きつくとキスをした。
秋の虫がリンリンと鳴き出す頃の夕暮れに、二人は駅に着くまで手を繋いで歩いた。
『また明日ね』
その時はそう言ってお互いに違う駅で降りた。
『おはよう』
それからは毎朝、ラインのやり取りで一日が始まった。
『次の日曜空いてる?』
日曜どころか平日でも時間を作って会っていた。
それまでは会社と家を行ったり来たりする、代り映えのない毎日だった。
しかし、それからはまるで華やぐような気分で過ごしていた。
手繰り寄せようとする記憶の糸は、ただただ楽しい時間ばかりを呼び起こしていた。
携帯の着信が鳴るたびに、翔からと思って浮ついた。
化粧の仕方も変え、どんな人が好みか芸能人に例えて聞いた。
ダイエットやスタイルの維持にも力を入れるようになった。
『ちょっとでも長く好きでいてほしいからね』
年上の真琴は本気で翔のことを想っていた。
真琴は、一度好きになったものを手放すことが苦手な性格だった。
その性格も相まって、翔を失いたくない一心で努力していた。
やがて真琴の勤める会社との取引が終わり、翔の勤める会社とは仕事上の付き合いが一旦止まる。
それでも二人は日々の業務が終われば、食事に行き、そのまま泊まることもあった。
そこには確かな幸せな日常があったはずだった。
「ウソよね?なんで?どうして?」
電話を鳴らしても翔が出る様子はない。
何度も電話をした。
何度も。
やがて、電話に出たのは違う男性だった。
「もしもし!このスマホの持ち主さん?今このスマホ拾ってさ──」
それは絶望だった。
翔のスマホは事件現場からかなり離れた場所に捨てられていた。
スマホはそのまま警察に届けられ、証拠として一時的に保管されることになる。
独りで食べる夕食の味は、酷くつまらないものに感じた。
温かいものでも箸をつけずに冷めてしまい、やがてそのままゴミ箱に捨ててしまった。
しばらく何も喉を通らなかった。
真琴は思い切って翔の実家に電話をした。
「………もしもし、真琴です」
『…………真琴さん?』
電話に出たのは翔の妹だった。
「あの、翔が……翔が電話に出なくて」
『……ああ。うん、そうね。……あのね……』
一瞬だけ電話の向こうで、鼻をすするような音が聞こえた。
『お兄ちゃんね、死んじゃったかも……』
「……ウソ…」
『さっき電話があってね、お父さんとお母さんがね……警察に行ってくるって……』
手から滑り落ちたスマートフォンの青白い光が、真琴の生気の抜けた顔を照らしていた。
現実を受け入れられず、ただ泣くことしかできない。
やがてその感情は怒りへ、そして憎悪に変わる。
数日後に捕まった男、曽我部聖志。
この男には償いでは足りない。
贖いが必要だ。
その憎悪は日に日に確実に増していった。
憎悪だけが、翔を失った後も真琴の中に残り続けていた。
まるで翔を失った喪失を埋めるように膨れていく。
許さない。
絶対に許さない。
もう使わなくなった化粧品の数々が、部屋に散らばっていた。




