第1話 対転
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
「申請は受理されました。認定証をお渡ししますので、もうしばらくお待ちください」
プラスチックのパーテーション越しに、女性職員が事務的な声を響かせる。
役所の住民票発行窓口と何ら変わらない、抑揚のない声。
それが、合法的な殺人の許可を待つ女に向けられた言葉だとは、誰も思わないだろう。
そう言われて、一人の女は、裁判所の『本懐申請窓口』の前の椅子に足を組んで座っていた。
朝の早い時間の日差しが差し込む廊下。
窓の外を見れば、街路樹の葉が青々と茂り、暖かい季節の訪れを喜んでいるようだった。
季節は春に向かっている。
肌を刺す風は鳴りを潜め、穏やかな季節が始まっていた。
どれだけ季節が巡ろうと、どれだけ時間が流れようと、確固たる事実が一つだけある。
亡くした婚約者は、二度と帰ってこない。
「これでやっと……」
女は独り呟いた。
ここに至るまでの二年間を思い出していた。
怨念にも似た、もっと泥濘のようなどろどろとした、けれど深淵から湧き上がるような「暗闇」のような気持ちが、不意に口から出てしまったのだ。
二年前。
まだ、あの笑っていた日常が壊れる前。
彼女は、婚約者と二人、レストランで夕食食べていた。
『俺と結婚してくれないか?』
そのとき婚約者は彼女を見つめて、少し恥ずかしそうに、少し不安そうに切り出した。
『………え』
彼女は突然婚約者からそう言われ、それまで食事していた雰囲気とは違う様子に固まってしまった。
嬉しかった。
しかしタイミングが突然で、彼女はそれ以上の言葉を出せなかった。
彼女は就職で県外から引っ越してきた。
友達もいない土地で一人、人間関係の構築から始めた。
そして、目の前の男と出会い、結婚の申し出をされている。
『ダメかな?結婚、したくない?』
『んーん、…違うの。嬉しくて………』
彼女はそう言うと、手で顔を覆った。
思わず涙が頬を伝う。
『ありがとう』
そう言うと、婚約者はそっと彼女の手を取り、その指に婚約指輪をはめた。
それからの生活は一変した。
同棲して一緒に住む部屋を探し、部屋が決まると家具を見て回った。
同じ街にいるのに、全てが新鮮に感じて、なにもかもがうまくいっているような、そんな気持ちで毎日を過ごしていた。
その日々を思い出すたびに、彼女は自らの胸をむしり取られるような痛みが心を抉った。
なぜ、彼が殺されなければならなかったのか。
なぜ、数ある人々の中で、自分の婚約者だったのか。
なぜ、彼との日々が傷つけられなければならないのか。
なぜ、あのとき引き止めもせず行かせてしまったのか。
なぜ、彼との最後の会話が、あんな下らない話なのか。
脳裏で黒く縺れ合う問いの数々に、答えが与えられることは、これまで一度としてなかった。
「お待たせしました。こちらが認定証になります。紛失や破損、あるいは他者への譲渡や偽造などは、資格の即時失効になりますので、くれぐれもご注意下さい。」
先ほどの職員が、今度は一枚の書類を差し出してきた。
彼女は、ゆっくりとそれを手に取る。
ただの紙だ。
ペラペラとした、どこにでもある、ちゃんと名前が印刷されていた紙だ。
けれど、そこには明瞭な文字でこう刻まれていた。
『対象者の殺害』
申請した内容も、間違いなく、その通りに書かれている。
国家が認めた、合法的な人殺し。
「これでやっと仇が取れる」
再び口から出た言葉は、裁判所の明るい廊下の中で誰に聞かれるでもなく消えた。
裁判所を出ると、すでに太陽は高く昇っていた。
寒暖差の激しい季節で朝必要だった上着は、この時間になると必要ない。
着ていた上着を脱いで脇に抱え、駐車場を出て駅に向かう。
途中にあるコンビニに寄ってお茶のペットボトルを買い、ベンチに座って認定証を読み返す。
根岸真琴殿⋯
貴殿の本懐は 対象者曽我部聖志 の殺害⋯
文字の羅列を見つめていて、改めて内容を確かめる。
国が掲げる「被害者遺族の感情の救済」という大義名分が、その紙切れ一枚に凝縮されていた。
「私がやり返してあげるから……待っててね」
目を閉じれば、あの日の葬儀の様子が脳裏に蘇る。
遠くからしか見ることのできなかった遺影は優しく笑っているように見えた。
その笑顔は婚約をしてからずっと見てきた、真琴に向けている笑顔と変わらなかった。
とてもその下に置かれた棺桶に彼がいるとは信じられなかった。
痛い思いをしたに違いない。
見知らぬ男に襲われて、助けを呼ぶこともできず、冷たくなっていったのだろう。
その時、婚約者の私は、何も知らずに家で眠っていた。
駅についてホームに上がる。
そして入ってきた電車は、通勤のときによく二人で手をつないで乗った電車。
ホームにはいつもと変わらないアナウンスが流れる。
そのアナウンスを聞くたびに蘇る記憶が、より深く心を突き刺した。
あなたを苦しめた奴が、のうのうと生きている。
「⋯⋯殺してやる」
そう小さく、だが強く呟いた根岸真琴は、震える指で鞄の紐を握り、電車に乗り込んだ。
ガタゴトと電車が目的地に向かって走り出した。
〜本懐法 第8条〜
本懐実行者の認定
前条の規定により申請が承認されたときは、第6条の申請を受けた機関は、本懐申請者を本懐実行者として認定し、認定証を交付する。
2 前項の認定は、申請者本人に対してのみ効力を有する。




