第9話 障縁 了
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
電車とタクシーを乗り継ぎ、傑は刑務所の前に到着した。
傑はタクシーを降りてから、ボーッと刑務所を見つめていた。
今から人を殺しに行く。
歩けばすぐそこにある門を入ってしまえば、後戻りはできないだろう。
だが、それは申請したときからわかっていたことだ。
傑は一歩一歩、踏みしめるように歩き出す。
怒りはある。
憎しみもある。
それでも緊張しているような、いろいろな感情が綯交ぜになった重いものを背負っているように感じた。
「おい!岸本!」
大きな声で呼び止めたのは、井沢淳平だった。
「やっぱり来るよなぁ……」
そう呟く淳平の顔には、苦々しさが滲んでいた。
淳平は傑に歩み寄った。
「一旦、引き返そう。な?」
「無理です」
「無理なことないだろ」
「ダメなんです」
「何がダメなんだ?」
淳平は傑に近づき、その腕を掴んだ。
「今日じゃなくてもいいだろ?」
「ダメなんです!」
「人殺しになるんだぞ!」
その言葉に、傑は真っ直ぐ淳平を見つめた。
「父ちゃんは殺された!」
声が震える。
「全部盗られた!全部!全部!」
淳平の動きが止まった。
「何も残ってなかった……」
傑の目には涙が浮かんでいた。
「全部なくなって……警察から返ってきたのは、全部犯人が持って行ったものだった……」
傑は力を込め、淳平の腕を振り払った。
「もう決めたんだ」
そう言って、刑務所の入口へ向かう。
「待て――」
なおも引き留めようとする淳平を、刑務官たちが囲むようにして制止した。
「おい!動くな!」
「待て!岸本!」
制止を振り解こうとする淳平を、刑務官が羽交い締めにして止める。
それでも淳平は傑に向かって手を伸ばし、叫び続けた。
「岸本!引き返せ!今じゃなくてもいい!」
しかしその腕は傑には届かない。
「本懐実行者への妨害の疑い!」
「妨害行為だ!」
淳平は刑務官達によって取り押さえられ、警察に引き渡されることになる。
〜本懐法 第25条〜
妨害行為
何人も、本懐実行者の本懐の実行を故意に阻害してはならない。
2 本懐実行者の本懐の進行を、故意に実行不可能にし、又は著しく困難にした者は、十年以下の懲役に処する。
3 前項の罪を犯した者については、以後、本懐の申請をすることができない。
傑は入り口の前に立つ刑務官の前で立ち止まった。
「これ……」
そう言って、認定証を見せる。
刑務官はそれを確認した。
「ずいぶん若いな……」
そう呟きながら認定証を確認する。
「……認定証は問題なし、か」
刑務官が入口を開ける。
チラッと見えた刑務官の目は、なにか異質なものを見るような目だった。
傑は何も言わず、その中へ入っていった。
本懐を遂げた傑は、刑務所を出た。
外は、来たときと何も変わっていなかった。
変わっていたのは、太陽の場所だけ。
道を歩く人たちは、傑のことなど見向きもしない。
それが、少しだけ不思議だった。
人を殺した。
なのに、世界は何も変わっていない。
傑はそのまま、完了報告のための窓口へ向かった。
「終わった?」
頷いた傑を対応したのは、申請したときと同じ職員だった。
「うん。報告と清算だね」
「はい」
傑は必要な書類を提出した。
職員は一枚ずつ確認していく。
「レシートと領収書も確認した。不正とかはなし」
そう言って、顔を上げる。
「不正があると24条に引っかかるからね」
「はい。知ってます」
「じゃあ、向こうで経費の精算するから」
そう言われ、傑はしばらく待った。
やがて職員が戻ってくる。
「はい。じゃあ、これね」
トレイに乗せられた現金を、傑は受け取った。
「今度は、お金、ちゃんと楽しいことに使いなよ?」
その言葉が、やけに傑の頭に残った。
受け取った現金を入れた財布。
その中には、野球のチケットが二枚入っていた。
もう期限は切れている。
今となっては、ただの紙切れだ。
事件の後、犯人の所持品と勘違いされたため、遺族に返還されなかった誕生日プレゼント。
傑が取り戻したかったもの。
それは――
父との約束だった。
もう使うことのできなくなったチケット。
それは傑が取り返したかった昭典とのかけがえのない約束だ。
二枚のチケットを財布に大切にしまい、傑は家へと帰った。
「おはよー」
傑はそう言って教室に入った。
教室にいた同級生たちが、一斉にこちらを見る。
以前とは違う視線だった。
友達だったはずの生徒も、傑と目が合うと、わずかに視線を逸らす。
一人の男子が声をかけようとした。
だが、傑を見るだけで、何も言わない。
「……いや、なんでもない」
そう言って、その男子は目を逸らした。
傑は何も言わなかった。
以前なら、くだらない話をしていた相手だった。
けれど今は、誰も近づいてこない。
誰も何も言わない。
ただ、恐れていた。
やがてチャイムが鳴った。
「出席とるぞー」
そう言って、見慣れない教師が教室へ入ってくる。
教壇に立つと、教師は生徒たちを見渡した。
「えー……井沢先生は退職されましたので、今日から私が担任を引き継ぎます」
生徒たちはなにも言わない。
傑も小さく頭を下げただけだ。
その教室には、井沢淳平がいない。
それだけだった。




