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第5話 機縁

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



それまでの岸本傑は、時折喧嘩をすることはあっても、成績は可もなく不可もなく、教師の手を焼かせるような生徒ではなかった。

少なくとも、担任の井沢淳平にとっては、そういう認識だった。


「出席を取るぞー」


朝のホームルーム。

いつものように教室へ入ってきた淳平は、出席簿を開き、名前を読み上げていく。


「石川」

「はい」

「衛藤」

「はい」


そして、


「岸本」


返事がない。

淳平は顔を上げ、教室の中を見渡した。

傑の席は空いていた。


「岸本、休みか?」


教壇の目の前の生徒に尋ねる。


「さあ……」

「昨日は普通だったよな?」

「はい。普通でした」


淳平は出席簿に目を落とした。

欠席の連絡は入っていないはずだ。


「……珍しいな」


そう呟きながらも、その場では深く考えなかった。

ホームルームが終われば、本人や家族から連絡が来るかもしれない。

寝坊でもしたのだろう。

そう思っていた。

しかし、一時間目が終わっても傑は来なかった。

二時間目が終わっても、来ない。

昼休みになっても、連絡はなかった。


さすがにおかしい。


淳平は職員室へ戻ると、岸本家へ電話をかけた。

何度か呼び出し音が鳴った後、電話が繋がる。


「あ、すみません。岸本くんの担任の井沢です。今日、岸本くんが欠席しているんですけど……体調不良ですかね?」


電話の向こうで、しばらく沈黙があった。

そして――


「……先生」


母親の岸本翠里の声が震えていた。


「はい」

「傑が……」


そこで翠里の言葉が途切れた。

そのおかしな途切れ方は、淳平に嫌な予感をさせるものだった。

交通事故、あるいは他の何らかの事件に巻き込まれたのだろうか。

だが、そんな連絡などはないし、ニュースなどにもなっていない。


「どうしました?」


返事がない。


「お母さん?」


ようやく、震える声が返ってきた。


「傑が……本懐の申請を……」

「……え?」


淳平の表情が変わった。

本懐、確かに電話の向こうで翠里はそう言った。


「本懐って……本懐法の?」

「はい……たぶん……」

「たぶん?」

「昨日、帰ってきたときも何も言わなくて……今朝になって、いなくなっていて……」


声が震えている。


「待ってください。傑くんが、本懐の申請をしたんですか?」

「分かりません……でも……あの子……お父さんのことで……」


そこで翠里は泣き始めた。

淳平は何も言えなかった。

頭の中に、傑の顔が浮かぶ。

授業中、窓の外をぼんやり眺めていた顔。

友達とくだらないことで笑っていた顔。

テストの点数を持ってきて、「先生、これ結構よくない?」と見せてきた顔。

特別目立つ生徒ではなかった。


だからこそ――


「……ウソだろ」


思わず声が漏れた。

傑は16歳だ。

少年が、自分の父親を殺した人間に対して、本懐を遂げようとしている。


そんなことが、本当に起きるのか。


「お母さん。今、傑くんがどこにいるか分かりますか?」


「分かりません……」

「申請した場所は?」

「それも……」

「分かりました。とにかく、落ち着いてください」


そう言いながら、淳平自身が落ち着いていなかった。

受話器を持つ手は震え、ガタガタと音を立てて受話器を置いた。

淳平は纏まらない考えのまま、教頭のところへ向かった。


「井沢先生、どうした?」

「緊急事態です」


いつの間にか緊張から息が荒くなっていたが、その息を整える暇もなく、淳平は言った。


「岸本が……本懐申請をした可能性があります」


教頭の顔から表情が消えた。


「……何?」

「16歳です」


その言葉を聞いた教頭もしばらく黙った。


「それは……確かなのか?」

「母親から聞きました」

「警察には?」

「まだです」

「すぐ連絡を――」

「捜索願を出しても、本懐実行者として認定されているなら、警察が積極的に探してくれるとは思えません」


淳平は真っ直ぐ教頭を見て言い切った。


「……それでも、念のために――」

「俺が行きます」

「井沢先生?」

「やるだけやってみます」


それだけ言うと、淳平は職員室を飛び出した。

廊下を走る。

生徒たちが何事かと振り返る。


傑がどこへ向かったのか。

誰に会おうとしているのか。

何をしようとしているのか。

それだけが頭の中を占めていた。


「間に合ってくれ……」


淳平は校門を飛び出した。

向かった先は裁判所だった。

本懐の申請。

それをするなら、まずここだ。


(頼む……まだ間に合ってくれ)


裁判所へ着く。

入口へ向かおうとした、そのときだった。

建物から一人の少年が出てきた。

見間違えるはずがない。


「……岸本?」


傑だった。


「おい!岸本!」


傑が足を止める。

振り返った顔には、驚きこそあったが、慌てる様子はなかった。


「先生……」

「お前……まさか……」


淳平は息を切らしながら傑へ駆け寄った。


「申請したのか?」


傑は答えず、制服のポケットから一枚の紙を取り出した。


「……これ」


淳平が受け取る。

そこには、はっきりと書かれていた。


本懐実行者認定証。

対象者――剣持久良。


「通ったのか……申請が」

「通るよ」

「でも、お前……未成年だろ?」

「年齢制限はないよ」


あまりにも淡々とした答えに、淳平は言葉を失った。

目の前にいるのは、いつも教室にいた傑と同じ少年だった。

制服も、顔も、声も変わっていない。

なのに、何かが違って見えた。


「岸本……」


傑は一礼すると、そのまま淳平の横を通り過ぎようとした。


「岸本!」


淳平は反射的に傑の腕を掴んだ。


「お前、本当に分かってるのか!?」

「何がですか?」

「人を殺すってことだぞ!」

「分かってます」

「お前は――」

「仇討ちです」


傑は淳平を真っ直ぐ見つめた。

その目には、一切の迷いがないように見えた。


「父ちゃんの仇を討つんです」

「……だからって、お前が人を殺していい理由には――」

「本懐法があります」


淳平の言葉を遮るように、傑は言った。


「法律で認められてるんですよね?」


じっと見つめる傑の視線に、淳平は何も言えずに思わず黙ってしまった。

本来なら申請する前に止めなければならなかった。


「先生」


傑は静かに続けた。


「これ以上は、妨害になるかもしれませんよ」


その言葉に、淳平の手が緩んだ。

傑は腕を振りほどく。

そして、何事もなかったかのように歩き始めた。


「岸本!」


呼び止める声にも、傑は振り返らなかった。

淳平は追えなかった。

ただ、その背中を見つめる。

遠ざかっていく少年の背中が、ひどく小さく見えた。


それなのに――


「仇討ち……って……」


その言葉だけが、いつまでも頭から離れなかった。

教師として、何かをしなければならない。

そう思っている。

しかし、今から何をすればいいのか分からない。

法律が、傑にその資格を与えている。


だからこそ――

淳平には、傑を止める言葉がなかった。


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