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第2話 順縁

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



警察の取り調べで、剣持久良はポツリ、ポツリと口を開いた。


「パワハラを受けていました」

「理不尽だと思っていました」

「成績が悪いから、異動させられるとも言われていました」

「ストレスで……精神科にも通っていました」

「暴力もありました」

「自分では、どうにもならなかったんです」


淡々と話していた久良だったが、時折、言葉を詰まらせた。

そして最後に、絞り出すように呟いた。


「誰も……この気持ちは分かってくれない」


少しの沈黙。


「殺すしかなかったんだ」


就職を機に両親のもとを離れ、一人暮らしを始めた久良。

会社で何があったのか。

本当は誰かに聞いてほしかった。


帰りたい。

仕事を辞めたい。

僕には無理だ。


そう両親に電話で訴えたことも、一度や二度ではない。

だが、返ってくる言葉はいつも同じだった。


「頑張れ」

「お前ならできる」

「負けるな」


悪意のない言葉だった。

だからこそ、久良には余計につらかった。

誰も自分の苦しさを理解してくれない。


自分だけが弱い。

自分だけが情けない。

そんな思いが、少しずつ積み重なっていった。


そして事件当日。

久良は自宅の包丁を通勤カバンの中に忍ばせて、家を出た。

最初から、その日に殺すつもりだったわけではない。


ただ、もしものためだった。

これ以上追い詰められたとき、自分を守るため。

久良にとって、それはあくまで『護身』だった。


会社に着いてしばらくすると、いつものように岸本昭典の怒鳴り声が響いた。


「バカ野郎!昨日のうちに数字直せって言っただろう!」


久良の肩が跳ねる。


「いいか!?直すまで帰るな!使えるもんになるまで持ってくんじゃねぇ!」

「……はい」


青ざめた顔で返事をし、久良は自分の席へ戻った。

昨日から何度も見直した資料だった。

それでも、どこが間違っているのか分からない。

昭典は丸めた書類を手に取ると、久良の頭を叩いた。


「こんなもん持ってきて、何がしたいんだ!」


紙の束が床に落ちる。


(もう無理だ……)


久良は震える手でそれを拾った。


(無理だ……もう、無理だ……)


視線が、机の横に置いた通勤カバンへ向かう。

その中にあるものを思い出す。


包丁。

久良は慌てて目を逸らした。


まだ、何も決めていない。


そう自分に言い聞かせた。

湯島商事に入社して、まだ半年ほどだった。

高校でも大学でも目立つほうではなかった。

人前に出ることも得意ではない。

まして、これほど強い圧をかけられる環境に置かれたことなど、一度もなかった。


それでも、何とかやらなければならない。


そう思っていた。


その日の終電が近づいても、久良はまだパソコンと向き合っていた。

時計の針が、ゆっくりと進んでいく。


そのときだった。


「お?なんだ?剣持、お前まだいたのか?」


帰ったと思っていた昭典が、オフィスに入ってきた。


「ったく。まだそれに時間かけてんのか?もう終電だぞ。帰れよ」


久良は顔を上げた。

信じられないという表情だった。


「……課長が」

「ん?」

「課長が……終わるまで帰るなって、言ったから!」


声を荒らげた久良に、昭典の眉間に皺が寄る。


「お前がトロいからだろうが。あ゛ぁん?文句あんのか?」

「僕は……!」


久良の声が震える。


「僕は、何を指摘されてるのかも分からない!どこを直せばいいのかも分からない!」

「バカか!なんで言われたことが分かんねぇんだ!てめぇ、それでも大卒か!?」


昭典の声が、誰もいないオフィスに響いた。


「いいか!?てめぇの上げた見積もりの数字だ!ここと、ここ!あと関連するここ!」


パソコンの画面を指で叩く。


「なんで、てめぇはこの程度のことが分かんねぇんだよ!」


久良は画面を見つめた。

数字が滲んで見える。

何を言われているのか、もう頭に入ってこない。


「……分かりません」

「あ?」

「分かりません……」

「ったく!」


昭典が久良の肩を殴った。

よろめいた久良は、机に手をつく。


「どうやったら、こんなバカに生まれつくんだ」


その言葉を聞いた瞬間。

何かが、久良の中で切れた。

久良はカバンを掴んだ。

中から包丁を取り出す。

そして、昭典に向かって振り下ろした。


一度。

二度。

倒れた昭典に、さらに刃を向けた。


やがて昭典の動きが止まる。


久良は荒い息を吐きながら、その場に立ち尽くした。

目の前にある現実を理解できなかった。


殺した。

自分が、人を殺した。

その瞬間、恐怖より先に、妙に冷静な考えが浮かんだ。


(どうせ……捕まる)


だったら、もういい。


久良は昭典の財布を取り、身につけていた時計や金品を外した。

さらに会社から持ち出せる現金も奪った。

そのまま会社を飛び出した。

盗んだ時計や金品を質屋に入れ、手に入れた金を持って繁華街へ向かった。


酒を飲んだ。

何軒も店を回った。

何も考えたくなかった。


そして、何日かして警察に逮捕された。


取り調べで久良が語った内容は、そのまま事件の全容として扱われた。


殺人。

強盗。

そして、会社から現金を持ち出したことによる業務上横領。

裁判の結果、久良には実刑判決が下され、刑務所へ収監された。


それからしばらくして。


「おい。ちょっと来い」


刑務官に呼ばれた久良は、別室へ連れて行かれた。


「今から、お前に対する本懐実行者が来る」

「……え?」

「お前はこのまま別の場所へ移される。分かったな?」


その言葉を聞いた瞬間、久良の顔から血の気が引いた。


本懐。


その言葉の意味を、彼は知っていた。


「……本懐?」


唇が震える。


「僕は……殺される?」


理解した瞬間、強烈な恐怖が襲ってきた。


「嫌だ!」


久良は叫んだ。


「僕は死にたくない!」


刑務官が久良の身体を押さえる。


「やめろ!僕は悪くない!あいつが!あいつが悪いんだ!」

「落ち着け。規則だ」

「嫌だ!僕は死にたくない!」


抵抗する久良の口に猿轡が噛ませられる。


「こればかりは、どうしようもない。行くぞ」


刑務官に連れられる最中も久良は暴れていた。


その先に待つものが何なのか。

彼には、もう分かっていた。


本懐実行者。


自分を殺すために来る人間が、そこにいる。


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