第9話 邪道
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
「本懐法を撤廃しろーー!」
「「「撤廃しろーー!」」」
「人殺しの法律を、撤廃しろーー!」
「「「撤廃しろーー!」」」
灰色の雲が低く垂れ込める、凍えるような冬の国会議事堂前。
半年前のあのまばゆい真夏の太陽の下で、水分も救護班も与えられずに二人の死者を出す凄惨な事故が起きたことなど、集まった群衆の脳裏からは、まるで誰も最初から覚えていないかのようだった。
他人の死など季節の移り変わりと共に綺麗に忘却されたようだった。
「優さん、優さん!これ見てよ、夏のデモの時より、明らかに人が集まってるよ!」
防寒着に身を包んだ矢木充彦が、白い息を吐きながら、半年前よりも確実に膨れ上がった群衆に向けてスマートフォンを向けていた。
「やっぱり人集まっちゃうよねぇ。だって、あたしがSNSで呼びかけたんだから。当然でしょ?」
相も変わらず自信たっぷりに、楠本優はカメラに向かって不敵に胸を張った。執行猶予の身でありながら、自分の拡散力がもたらしたこの熱気に、早くも脳を心地よく麻痺させている。
「今回はさ、安全対策もバッチリだしね」
そう言って優は、少し離れた歩道の脇に設置された、簡易的な屋根へ向けて得意げに目を向けた。
それは、どこにでもあるキャンプ用の安っぽいタープテントだった。
「体調が悪くなった人は、あっちの休憩所で少し休んでもらって、良くなったらまた戻って大声で騒いでもらおう」
何の防寒設備もない三つほど並べられたタープテントが、公道を広く塞いでいる。
その脇を、一般の通行人たちが不快そうに眉をひそめ、避けて歩いていた。
近くには警備にあたる警察官の姿もあったが、誰もその設置許可を確認している様子はない。
「ね?今回は完璧でしょ?」
「休憩所も作ったし。これなら誰が倒れても『安全、安全』。文句のつけようがない」
二人は画面の向こうのフォロワーに向けて笑いながら、再びハンディカメラに向かって軽薄なトークを始め出した。
その姿を、車道を挟んだ道路の対岸から、寒風に吹かれながらじっと見つめている一人の女がいた。
本間茜音だった。
(……いた。あいつだ)
茜音は、あの『冬のデモやりまーす』という優の新しい呼びかけ動画を見てから数日の間、狂ったように優の過去の配信動画やSNSのタイムラインを見返していた。
そして今。
茜音は初めて、父親の命を奪った張本人である楠本優を、その目でダイレクトに捉えていた。
もし、半年前のあの夏の日よりも前、普通の出戻りのシングルマザーだった頃の茜音なら、この距離からでも優を見つければ、少しだけ心が躍り、嬉しかったかもしれない。
動画の中で見ていた憧れの人。
自分が紹介された化粧品を買い、同じように綺麗になろうと真似をしたこともあった。
だが、今は違う。
父親は死んだ。
検察は動かなかった。
警察も動かなかった。
母親は、たったの430万円という端た金で、命の示談書にハンコを捺した。
社会のすべてが、お父さんの存在をなかったことにしようとしている。
そして、この目の前にいる女は。
人が二人も死んだというのに、何一つ責任を負うこともなく、執行猶予の身で、何もなかったかのように、ヘラヘラと笑っている。
茜音は、ゆっくりと道路を渡った。
反対デモの熱気に狂う人混みを、強引にかき分ける。
一歩。また一歩。
優との距離が、少しずつ、確実に縮まっていく。
「本懐法をこの国から無くすためには、やっぱり私たちが声を上げ続けないとダメなんです──」
優がカメラに向かって、いかにも正義の味方のような澄ました顔で話している。
その声が、遮るものなく茜音の鼓膜に突き刺さる。
「──だって、あんな人を殺すことを公認する残虐な法律があるから、誰かが傷つくんですよ。私たちはそんな悲劇を止めたいんです!」
その言葉を聞いた瞬間、茜音の足がピタリと止まった。
全身の血が逆流するような激しい怒りで、両拳がガタガタと震え出す。
(……誰かが傷つく?悲劇を止めたい?)
私のお父さんは死んだ。
その本物の悲劇を、お前が引き起こした。
その事実を知っているのは、私だけではない。
この目の前の女だって、弁護士を通してすべて知っているはずだ。
それなのに、よくもそんな被害者面をした綺麗な綺麗事が口から出る。
「みんなで声を上げれば、きっと世界は変えられます!優たちと一緒に頑張りましょう!」
優が、カメラに向かって眩しいほどの笑顔を作った。
その笑顔を見た瞬間。
茜音の中で、張り詰めていた最後の理性の糸が、完璧にブツリと切れた。
「ちょっと!!!」
茜音は大きな声を上げながら、周囲の人混みを猛烈な勢いでかき分け、優の元へと駆け寄った。
「え……?」
優が、驚いたように振り返る。
次の瞬間。
茜音は遮二無二手を伸ばし、優の右腕を強い力でガシッと掴み取った。
「な、何してるんですか!離れろ!」
異変に気づいた充彦が、慌ててカメラを下げて声を上げた。
「離してよ!なんなのよ!」
優は驚いたように目を見開いたまま、突如現れた茜音に圧倒され、声も出せない。
充彦が割り込み、茜音の細い腕を乱暴に掴んで、優から引き離そうと力任せに引っ張る。
「お前たちのせいで……お前たちのせいで!!」
茜音が、喉を引き裂くような悲鳴を上げて叫んだ。
「お父さんは……!私のお父さんは!!」
「やめてください!警察呼びますよ!」
「お父さんを、うちのお父さんを殺しておいて、何が安全対策よ!!何が本懐法反対よ!!」
その「殺した」という不穏すぎる言葉に、周囲のデモ隊の人間たちが一瞬でざわめき、静まり返った。
「よくも……よくも、のうのうと、カメラの前で笑っていられるわね……!」
茜音は複数の男たちに引っ張られながらも、優の腕を絶対に離そうとはしなかった。
「あなたは……!あなたがあの日、お父さんを……!」
「警察呼んで!充彦、早く!誰か、警察呼んでください!」
優の怯えきった悲鳴に反応するように、周囲のデモの参加者たちが駆け寄ってきた。
「ちょっと、何してるんだあんた!離れなさい!」
「離れろ!」
「危ない!この女、刃物を持ってるかもしれないぞ!」
何本もの太い腕が、茜音の身体を後ろから羽交い締めにし、腕を強引に引き剥がそうとする。
「離して!離しなさいよ!」
茜音は必死に涙を流しながら抵抗した。
「この人が……この女が、お父さんを殺したのよ!」
「いいから離れて! 落ち着きなさい!」
「この人たちのせいで、うちのお父さんが熱中症で死んだんです!何が事故よ!こいつらは人殺しよ!!」
「いいから静かにしろ!」
何人もの力によって、身体が強引に優から引き離されていく。
引きずられながらも、茜音は髪を振り乱し、鬼の形相で優を睨みつけ続けていた。
優は、恐怖に顔を青ざめさせながら、充彦の背中の後ろに隠れるようにして立っている。
そして。
その怯える優の胸元を見た瞬間、茜音の視線が、そこに磁石のように吸い寄せられた。
優のコートの胸元には、ピンで留められた、見覚えのあるカードがこれ見よがしに掲げられていた。
『本懐放棄意思表示』
大きくそう書かれたカード。
それを見た瞬間、茜音の頭の中が真っ白になった。
(……それ)
半年前。
父親が死んだ、あの地獄のような炎天下の日。
自分たちがあんな悪法には絶対にお世話にならないと誓って、必死に胸に抱いていたもの。
本懐を放棄する意思を示すための証。
それを、あの女は、自分のデモの『本懐法反対の象徴』として掲げながら、カメラの前で笑っていたのだ。
「……それ、何よ?」
茜音の声が、一瞬にして温度を失い、低く地を這うような声に変わった。
優は恐怖のあまり、何も答えることができない。
「それ……お前なんかが、付けるんじゃないわよ……!」
茜音の身体から、すとんと力が抜けた。
周囲の取り押さえていた男たちも、彼女の急な脱力に、一瞬だけ警戒の力を緩めてしまう。
次の瞬間。
茜音は電撃のような速さで、優の胸元へ向かって両手を伸ばした。
「キャッ!やめて!」
優が悲鳴を上げる。
取り押さえられる寸前、茜音の指先が、優の胸元のカードを確かに掴み取った。
そして――。
ビリッ!!!
冷たい冬の空気の中に、紙が引き裂かれる摩擦音が響き渡った。
「……え?」
優の顔から、完全に余裕の笑顔が消え失せた。
茜音の手の中で、彼女たちがデモの道具として掲げていた『本懐放棄意思表示カード』が、無惨に真っ二つに裂けていた。
「こんなもの……こんなものがあるから……!」
茜音の声は、激しい怒りと涙で完全に震えていた。
「お父さんが死んだのに、国も警察も、誰もあいつを裁いてくれない……!」
誰も、何も言えなかった。周囲の群衆も、警察官も、ただ真っ二つに引き裂かれたカードを見つめて立ち尽くしている。
茜音は、自分の手の中でクシャクシャになった破れた紙片を見つめた。
そして、もう一度、充彦の後ろで震える優の顔を、蛇のような冷たい目で見据えた。
「……お前たちのせいだ。お前たちが、全部、お前たちが悪いんだよ」
その低い声に群衆の静まり返ったざわめきの中に響いた。
「お前たちがぁああああああッ!!!」
茜音が再び優へ向かって猛然と突進していく。
その前に、カメラを構えた充彦が、優を守るようにして盾となって割って入った。
「やめろ!来るな!」
「どけぇぇぇえええッ!!!」
茜音は、目の前に立ち塞がった充彦の胸を、両手で思いのまま全力で突き飛ばした。
押し出された充彦の身体が、固い歩道の地面に、ガシャアアンとカメラごと激しく手を突き、生々しい骨折の音が響いた。
「危ない!」
「やめろ、この女を早く押さえろ!」
「警察!早く来い!」
国会前の歩道が一瞬にして阿鼻叫喚の怒号に包まれる。
今度は容赦なく、四人、五人の警察官と男たちが茜音の身体を地面に組み伏せ、手首を力任せにねじ上げて取り押さえた。
それでも、冷たい地面に顔を擦り付けられながら、茜音は喉から血を流すほどの声量で叫び続けた。
「お前たちがお父さんを殺したんだ!!」
「殺したんだよ!!」
「お父さんは殺されたんだ!終わってなんかいないんだよ!!」
茜音の悲痛な叫び声は、やがて、スピーカーから流れるデモ隊の「撤廃しろ」という大音量のシュプレヒコールと、周囲の怒号の中に、中途半端にかき消されて消えていった。
その日のうちに、突き飛ばされた充彦は救急車で病院へ運ばれた。
地面に激しく手をついた際の手首の重傷。数針を縫い、ギプスで固定する大怪我だったが、幸いにも命に別条はなく、大事には至らなかった。
一方、茜音はその場で警察に現行犯逮捕され、傷害事件の被疑者として警察署の取調室へと連行された。
だが、殺意の立証については曖昧であり、身元も確かで幼い子供がいるという理由から、厳重な取り調べを受けた後、その日の夜遅くには、一旦自宅へと帰宅することになった。
ガチャ。
暗い我が家の玄関を開ける。
家の中の空気は、あの日と同じように、静かで、いつもと何も変わらなかった。
薄暗い居間の奥、仏壇には父親の遺影の写真が置かれている。
何も知らないような、いつもの優しい不器用な顔で、父親はそこに静かに佇んでいた。
茜音は、その写真をじっと見つめた。
涙は、もう一滴も出なかった。
(……許さない)
楠本優を。
矢木充彦を。
あの画面の向こうで無責任に応援している、何十万人のフォロワーたちを。
そして。
お父さんの命の重さをただの手続きの書類として扱い、何もかもを「終わったこと」にして処理してしまった、検察も、警察も、すべてを。
(絶対に……。まだ終わってないんだから……)
茜音は、誰にも聞こえないくらい小さい声で、そう呟いた。
その一言は、線香の匂いの漂う暗い部屋の中へ、静かに消えていった。




