第8話 冥道
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
警察署から独り虚しく我が家へと帰ってきた茜音をリビングで迎えたのは、ソファに座っていた幼馴染の茂治と、その妻の里美だった。
「おお、おかえり」
「おかえりなさい」
2人にそう穏やかに声をかけられ、茜音は重い鞄をテーブルに置きながら、心細そうに辺りを見回した。
「……あれ?お母さんは?」
「え?叔母さんから何も聞いてない?」
茂治が少し意外そうな顔をしてそう答えた、まさにその時だった。
ガチャ、と静かに玄関のドアが開く音がした。
「ただいまぁ……」
入ってきたのは、母親の和子だった。
「ふぅ……、流石に疲れちゃったねぇ……。チビちゃんたちは、もう寝たかい?」
そう言いながら和子がリビングへと入ってきた。
その足取りは、ここ心労のせいか、酷く弱々しく見えた。
「あ、お母さん。どっか行ってたの?連絡もなしに」
「え?あんた、何言ってるんだい。今日は例の『示談』の件で、弁護士さんの事務所へ出かけるって言っておいただろうに。忘れちゃったのかい?」
和子はそう言って、疲れ切ったように食卓の椅子へと深く腰を下ろした。
「あんたが朝から何も言わずにどっかへ行っちゃうから、私一人で判子を押しに行ってきたんだよ。……ちょっと、そんなところでぼーっと突っ立ってないで、お茶でも淹れておくれよ」
「……示談?」
茜音の声が、ピタリと止まった。頭の芯が冷たく凍りついていくような感覚。
和子は何でもない、日常の事務手続きの報告をするかのように、淡々と答えた。
「そうよ。昨日だってちゃんと話していたでしょう?全く、この子は……」
「……何の、示談よ?」
「何のって……お父さんの件に決まっているでしょう」
茜音の胸の奥で、何かがバキリと、嫌な音を立てて崩れ落ちた。
「430万。それでハンコを捺してきたの。……これで、この件は終わり」
「……ちょっと待ってよ!なんで!?なんでそんな勝手なことするのよ!」
茜音は一瞬で血相を変え、椅子に座る母親の前に詰め寄った。
「なんで!?ねぇ!なんでそんなお金で納得しちゃうのよ!?」
「うるさいねぇ、大声を出すんじゃないよ!」
和子が不快そうに顔をしかめる。
「最初はさ、弁護士さんも『3,800万』は請求できるって言っていたんだよ。なんかこう、ややこしい法律の言葉をたくさん並べ立てさ」
「そうじゃなくって!そういう金額の話をしてるんじゃないの!」
「なによ?」
「3,800万円の請求が、どうして430万円になっちゃうのよ!?おかしいでしょうが!」
「なんとか割合がどうのこうのって……あー、もう、ややこしいね!」
和子は心底疲れたように頭をガシガシと掻いた。
「向こうの弁護士がね、これ以上の金額の支払いは絶対に無理ですって提示してきたのが、その数字だったの!」
「なんでそんなに少なくなるのよ!?お父さんの命だよ!?」
「向こうの、なんとかっていう女の子が、ツテとか全部使って、必死にかき集めたお金の総額が、全部で860万円だったんだってさ!」
「だからって、なんでそれを丸呑みするのよ!」
「無い袖は振れないんだよ!これ以上の金額を求めて裁判を長引かせても、現実的じゃないって弁護士さんにも言われたんだよ!」
「現実にお父さんは死んでる!!!」
茜音が喉を引き裂くような声で叫んだその言葉で、リビングの空気が一瞬で、凍りついたように静まり返った。
気まずい沈黙の中で、茂治が、ちらりと隣の子供部屋の方に視線を向けた。
「……おい、里美。ちょっと子供たちの様子、見てきてくれ」
「うん、分かった」
里美が静かに立ち上がり、険悪な空気の居間から逃れるようにして子供部屋の方へと向かっていく。
その姿が完全に消えたのを見届けてから、和子が、押し殺したような低い声で静かに口を開いた。
「……あの事故ね、お父さん以外にもね、もう一人、どこかのお婆ちゃんが熱中症で亡くなっているんだって」
「…………」
「それで、向こうが出してきた860万を、あちらの遺族の家庭と折半して……私たちの手元に残るのが、430万」
茜音は何も言えなかった。
ただ、唇を強く噛み締めることしかできなかった。
「もう一人の方の家族だってね、同じように身内を亡くして悲しんでいるんだから。……仕方ないでしょう」
「…………」
「これ以上、あの女の子のところから毟り取れるものなんて、現実的には何もないんだってさ」
和子はテーブルの上に置いた茶封筒の束を見つめた。
そこには、すべてが終わったことを証明する、示談書の控えが冷たく入っていた。
「……お母さんはね、お父さんの命の価値が、たったの430万だなんて、これっぽっちも思っちゃいないよ」
茜音がゆっくりと、涙の枯れ果てた顔を上げる。
「じゃあ、なんで……なんでハンコなんて捺したのよ……」
和子はしばらくの間、静まり返った部屋で黙っていた。
そして、小さく、深い息を吐いた。
「だって……これ以上、私たちにどうしろっていうのよ……」
茜音は、その母親の悲痛な問いかけに、何一つ答えることができなかった。
和子は力なく立ち上がると、お茶を淹れるために、背中を丸めて台所の暗がりへと向かった。
「お茶を淹れてほしかったんだけど、ね……」
背後から、ジャーーー、と蛇口から冷たい水が流れる無機質な音が居間に響いた。
茜音はその場から、一歩も動くことができなかった。
430万円。
出戻りの自分と孫を、無言で、優しく守ってくれた父親の命が、その程度の安っぽい金額へと綺麗に整理されて換算された。
(……終わり?これで、全部終わりだっていうの?)
検察も言った。
「刑事手続きとしては終了した」と。
警察も言った。
「すでに捜査は終了している」と。
そして今度は、最も身近にいる母親までが、そのお金の数字を受け入れて「終わり」にしようとしている。
(まだ……お父さんは、殺されたのに……!)
誰もが、この不条理を忘れて、終わったことにしようとしていた。
チカ、とポケットの中で、スマートフォンの通知が冷たく点滅した。
茜音が魂を抜かれたような手つきで画面を開くと、そこには、かつて自分が憧れてフォローしていた楠本優の、数分前に投稿されたばかりの新しい動画が流れていた。
『──はーい、皆さんお久しぶりです!実は今度、冬の国会議事堂の前で、本懐法反対の新しいデモをやりまーす!皆さん、今度は寒さ対策をバッチリして、みんなで国会前を埋め尽くしちゃいましょう!』
画面の向こうの楠本優は、執行猶予の身でありながら、あの事故のことなど「過去のバズったコンテンツ」としてとっくに消費し尽くし、相変わらず悪びれもせず、楽しそうに動画を回して再生数を稼いでいた。
あいつらは、1ミリも反省なんてしていない。
画面の中の優は、人が2人も死んだのに、それをただのノイズとして、今度は冬のデモをエンタメにして笑っているように見えた。




