第7話 霞道
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
検察は動かなかった。
どれだけ言葉を尽くして上申書を送ろうとも、窓口へ行って頭を下げようとも、相手にされなかった。
(刑事手続きとしては、すでに終了した事件として扱われています)
あの冷淡な窓口職員の放った言葉が、本間茜音の胸の奥で、ドロドロとした黒い澱のように沈殿してどうしても納得がいかなかった。
(事故として処理された……。国が、法律があの女を『過失』だと認めて、執行猶予を付けて社会へ返したんだ)
茜音の全身を、激しい不条理の嵐が吹き荒れる。
だが、裏を返せば、もしこれが「事故」ではなく、明確な意図を持った「事件」として証明されるなら、状況はすべて反転するのではないか。
「なら……もし、あれが最初から仕組まれた『事件』だったと証明できれば、もう一度あいつを起訴できるかもしれない……!」
暗闇の底で、茜音にはその突拍子もないロジックだけが、蜘蛛の糸のような最後の希望の光に思えた。
検察庁を這い出た翌朝。
茜音は寒風吹き荒れる街へ飛び出し、自宅から一番近い最寄りの警察署へと息を切らせて駆け込んだ。
「あの……!お願いします!」
重い自動ドアをくぐり、署内に入るなり、大きな声を張り上げた茜音の姿に、受付やロビーにいた数人の署員たちの目線が一斉に向いた。
「はい。どうされましたか?」
怪訝そうな顔を浮かべながら近寄ってきた、制服姿の女性警官に、茜音は距離を詰めるようにして早口でまくし立てた。
「半年前の、国会前のデモで起きた熱中症の事故の被害者の家族です!お願いです、あの事件の再捜査をしてください!あいつらは反省なんてしてない!」
「えーっと……。一旦落ち着いて下さいね」
女性警官は一瞬困ったような顔をして周囲を見渡すと、興奮する茜音の横に静かに移動し、ロビーのベンチ椅子に腰掛けるように優しく促した。
「本当に申し訳ないんですけどね、うちの署では対応できないんですよ」
「……いえ、でも!人が死んでるんです!」
「ええ、分かります。本当に申し訳ないんですが、あそこは管轄外なんですね。当時の捜査を担当した警察署の場所と連絡先を今書きますから、そちらへ伺ってもらえませんか?」
そう事務的に言われ、ロビーで数分待たされて手書きのメモを渡されると、茜音は「ありがとう」の言葉すら言わずに警察署を飛び出した。
ガタゴトと電車に揺られながら、窓ガラスに映るやつれた自分の顔を見つめる。
やがて、当時の捜査を担当した巨大な警察署へと到着した。
茜音は、先ほどと全く同じように、署内に入るなり大きな声でまくし立てた。
「半年前の国会前のデモの被害者の家族です!再捜査のお願いに、ここまで来ました!」
入り口の案内係の男性警官が、あからさまに厄介者が来たと周囲に目配せをしてから、茜音にゆっくりと歩み寄ってきた。
「あー……ちょっと、担当の者が確認しますので、あちらのロビーでお待ちいただけますか?」
そう言われて、広いロビーの硬いプラスチック椅子に腰掛ける。
十分、二十分、三十分……。
どれだけ待っても、奥の扉から担当の刑事が出てくる気配はない。
茜音は張り詰めた焦燥感に耐えかねて、ロビーに備え付けられていた自動販売機で、本日2本目となる缶コーヒーを買い、冷え切った手の中で握りつぶしていた。甘い液体の味など、もう何も分からなかった。
「あ、すみません。大変お待たせしました。……国会前のデモの件で来られた、本間さん、ですか?」
不意に声をかけられ、茜音は弾かれたように勢いよく振り返った。
「はい!再捜査のお願いに来ました!」
「あ、はい。それでは、ちょっとこちらのほうへ……」
促されるまま、ロビーの隅に設置された、白い簡易的なパーテーションで区切られただけの味気ない相談デスクへと通される。
対面に座ったのは、私服姿の警察官が二人だった。
彼らは手元の分厚いファイルをめくりながら、やはり困った顔で話し出した。
「先ほど捜査資料を改めて読み返してみましたが、本当に申し訳ないんですが、現時点におきましては、再捜査を行うことは………」
そう言って、語尾を濁すようにして視線を外す警察官に、茜音は机を叩くようにして身を乗り出した。
「待ってください!私のお父さんは、死んでるんです!」
「……そうであっても、一度の判決が下り、執行猶予が確定しているこの件につきましては、これ以上の捜査は極めて難しいですね」
柔らかく、丁寧に、けれど絶対に『再捜査はしない』という国家の壁を突きつけられているようなものだった。
「でも、あれは事故なんかじゃないですよね!?あいつらが再生数を稼ぐために人を集めた事件ですよね!?」
「んーー、まあ、お気持ちは分かりますが……」
「お父さんは死んだんです!まだ何も終わってないんです!」
何度同じ言葉を叫んでも、二人の警察官はただ、困ったような顔のまま、マニュアルの盾の裏へ身を隠すようにして押し黙るだけだった。
「どうしても……どうしても、もう一度だけ、あいつらを調べてもらうことはできないんですか?」
「お気持ちは察しますが、刑事事件としての捜査は、我々の間でもすでに『終了』していますからね」
(検察のときと同じじゃない……。なんで誰も、お父さんの命に向き合ってくれないんだ……)
茜音は、目の前が真っ暗になるような激しい納得のいかなさに、全身を震わせていた。
お父さんは死んだのに。
家にはもういないのに。
検察も、警察も終わったものとして片付けようとしている。
「……ただね、本間さん。何か『新しい証拠』が上がってくれば、話は別ですがね?」
帰りたそうに書類を片付け始めた警察官の、その何気なく放った一言に、茜音は飢えた獣のように食い入った。
「新しい証拠って……何ですか!?それがあれば、もう一度あいつを逮捕してくれるんですか!?」
「……可能性の話ですよ。新しい証拠があれば、事件そのものを改めて検討する余地が出てくる、という意味です」
その言葉を聞いた瞬間、茜音の脳裏に、数日前のあの裁判所の外で笑っていた、楠本優と矢木充彦の姿が鮮明にフラッシュバックした。
「あります!証拠ならあります!あの女、一昨日投稿した謝罪動画の裏で、裁判所の外では『執行猶予ラッキー』って笑ってたんです!『人が死んだデモの動画が過去最高にバズって嬉しい』って、笑いながら話してたんです!あいつらは、お父さんたちの命を最初から何とも思ってない!これって事件でしょう!?」
茜音の必死の告発に対し、目の前の警察官は、憐れむような苦笑いを交えて静かに首を横に振った。
「いや……それはただの不謹慎な言動であって、法的な『殺意の証拠』にはならないですよ」
「なんで!?なんでこんなの!事件じゃないのよ!?」
「大変申し訳ないんですけど、それだけでは我々警察としてはどうにも……」
そう言うと、二人の警察官は同時にデスクから立ち上がった。
「すみません。この件については、今のところ我々では力になれそうにありません。お引き取りを」
そう言って、茜音に帰るように促した。
パーテーションの外へ押し出され、再び冷たい冬の風が吹く街へと放り出される。
(新しい証拠……。殺意を証明できるもの……)
茜音は、何度もその言葉を頭の中で繰り返した。
それは希望だった。
ほんの僅かな、霞のような希望だった。
けれど茜音には、それ以外に縋れるものがなかった。




