第5話 薄道
『この度は大変申し訳ありませんでした』
黒いスーツに身を包み、いつもの派手なギャルメイクを完全に落とした楠本優が、画面の向こうで厳かに頭を下げている。
神妙な表情、震える声、完璧に計算されたお辞儀の角度。
一見すれば、自分の犯した罪の重さに涙し、真剣に反省しているようにも見えるだろう。
ネットのライト層なら、この姿に簡単に騙されるに違いない。
しかし、本間茜音には、どうしてもそうは見えなかった。
優が謝罪動画を投稿したのは、判決が下された翌日のことだった。
(こいつら、また演技してるに違いない)
あの日、裁判所で優たちを見かけてから、茜音の中で楠本優という人間の印象は、完全に変わっていた。
かつての茜音は、優の動画をよく見ていた。
フォロワーでもあった。
優が動画で紹介していたトレンドのメイク方法を必死になって真似したこともある。
出戻りで生活が苦しい中、お小遣いをやりくりして、優が「おすすめ」と言っていたブランドの化粧品を同じように買ったことだってあった。
時事ネタや社会問題に切り込む動画も凛とした表情で配信していたため、画面の向こうの彼女は、ただ綺麗なだけでなく、自分の芯を持った頭のいい人なのだと、純粋に信じ込んでいた。
けれど、今は違う。
(こいつらは、何も考えてない)
優にも、あの撮影をしていた矢木充彦にも、自分たちのせいで人が二人も死んだということに対する、本当の意味での罪悪感など、爪の先ほどもありはしないのだ。
茜音には、そうとしか思えなかった。
優の謝罪動画には、すでに大量のコメントが寄せられていた。
『優ちゃん、悪くないよ!』
『執行猶予で本当に良かった!これからもずっと応援してます。一緒にあの悪法に反対しましょう!』
『デモを企画した行動力は本物です!次にデモをやるときは、俺たちがボランティアで安全対策部隊をやりますから!』
『アンチの誹謗中傷に負けないで、これからも動画配信頑張ってください!』
その他にも、メイクを落とした優の素顔を「すっぴんも可愛い」と褒め称えるものや、下卑た欲望の透けて見えるような男性視聴者からのコメントが、ズラリと一列に並んでいる。
(クソ……)
彼女には、その画面の中に溢れる言葉のすべてが、あまりにも無責任で、あまりにも醜悪に思えてならなかった。
お父さんが死んだ。
それなのに、ネットの画面の向こうの人間にとっては、本懐法を叩くための都合のいい政治的な主張の材料であり、インフルエンサーにとっては再生数を稼ぐためのコンテンツであり、フォロワーにとっては、応援する可愛い女の子がやらかした「ちょっとした話題」に過ぎないのだ。
それが、たまらなく悔しかった。
「あんたねぇ。そんな動画ばっかり見てないで、さっさとご飯食べてくれない?」
母の和子の声が飛んできた。
「そんなもん見ても無駄よ。それより、さっさと食べてくれる?ちゃっちゃと片付ける方が価値ある行動よ」
そう言って、和子は自分の食べ終えた食器を片付け始めた。
ガチャガチャとシンクの中に皿を置き、ジャーーー、と勢いよく蛇口をひねる無機質な音が、静まり返った居間に響き渡る。
「あんたがどう思ってもね、もう裁判も終わったんだから。仏壇に手を合わせて、さっさと仕事の面接でも行きなさいな」
(わかってるけど……)
茜音は母親の後ろ姿に何も言い返すことはできなかった。
それからというもの、茜音は何度も優の動画を見返した。
動画やそのコメントを見るたびに、頭の芯が破裂しそうなくらいに激しい怒りが湧き上がった。
それでも、ただ画面に向かって怒っているだけでは、あの女は何一つ傷つかないし、現実の不条理は何も変わらないのだ。
茜音は藁にもすがる思いで、検察に対して必死に書き連ねた、一通の『控訴上申書』を作成し、検察庁へと送付した。
だが、何日経っても、ポストの中に検察からの返書が届くことはなかった。
一週間が過ぎ、十日を過ぎても、父の命の扱いは無視されたままだった。
たまらなくなった茜音は、震える手でスマートフォンのダイヤルを押し、直接、検察庁の代表番号へと電話をかけた。
「もしもし。本間茜音といいます。あの……国会前のデモの事件について、上申書を送ったんですけど……」
『上申書の件ですね。それでは、担当の部署でお調べしますので、このまま切らずにお待ちください』
保留音が流れる。
しばらくして、別の男性の声がした。
『お電話代わりました。新村といいます。』
「あ、あの……!本間茜音といいます。先日、国会前のデモの熱中症事故の件で、楠本優被告への控訴を求める上申書を郵送したんですけど……どうなっていますでしょうか?」
『はい。確認いたしますので、事件番号をお伺いできますか?』
「あ、はい、ええと……」
茜音は慌てて手元のテーブルに広げていた書類の束をめくり、メモに書かれた無機質な事件番号を早口で伝えた。
『少々お待ちください』
再び保留音。
一分……二分……三分……
たったそれだけの時間が、茜音にはひどく長く感じられた。
やがて、電話の向こうから声がした。
『確認いたしました。国会前での件ですね。あー、業務上過失致死傷事件ですね。確認いたしました。本間様からお送りいただいた上申書については、確かにこちらで受領しております』
「じゃあ……!」
思わず、茜音の声が弾んだ。
胸の奥に、微かな希望の光が差し込んだような気がした。
「控訴について、ちゃんと上層部で検討してもらえるんですよね!?あの女を、もう一度ちゃんと裁判にかけて実刑にしてくれるんですよね!?」
『……上申書につきましては、規定通り、担当部署において内容が確認されます』
「それって……その確認の後に、控訴してもらえる可能性があるっていうことですか!?」
しかし、新村の口から返ってきたのは、彼女の微かな希望を一瞬で叩き潰す言葉だった。
『申し訳ありませんが、検察が控訴を行うか否か、その具体的な判断基準や進捗につきましては、こちらから個別に被害者の方へお答えすることはできません。そのような規定になっておりますので』
「でも……!でも、私のお父さんが死んでるんですよ!?」
茜音の悲痛な叫びに対して、受話器の向こうが、一瞬だけ重苦しく沈黙した。
「父は何も悪いことしてないのに……あんな、あんな人たちに殺されたみたいなものなんです。それなのに、執行猶予って……」
『……お気持ちは、お察しいたします』
ほんの少しだけトーンの下がったその言葉に、茜音はほんの僅かな期待を抱いた。
この人も、一人の人間として私の味方をしてくれるのではないか、と。
「だったら──」
『ただ、控訴を行うか否かにつきましては、判決の法的妥当性や、これまでの証拠関係などをすべて踏まえた上で、担当検察官が総合的に判断することになります』
「……はい」
『ですので、現時点におきましては、こちらから個別にこれ以上お伝えできることはございません』
「……そうですか」
『ほかに、何かございますでしょうか?』
「……いえ、もう、ないです」
『それでは、失礼いたします』
プツッ。
冷淡に、一方的に電話が切れた。
茜音はしばらくの間、電子音が虚しく鳴り続けるスマートフォンを耳に当てたまま、薄暗いリビングの壁を見つめて動くことができなかった。




