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第8話 徒願 了

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



「……珍しいな。親父がこんなところに来るなんて」


刑務所の無機質な面会室。

アクリル板の向こう側に座った中山芳樹は、背もたれに深く身体を預け、どこか気だるそうな、冷めた態度をとった。


ガラスを挟んで対面しているのは、その実の父親であり、仕事ばかりで自分たちの現実から目を背け続けていた、中山雅明だった。


一年半の間に、わずか二度しか面会に来なかった父親。


「今日はな、ちょっと特別なんだ……」


雅明の声は低く、酷く掠れていた。

いつもの仕事用のスーツではなく、どこか着古した私服を着ているその肩は、小さく震えているようにも見えた。


「へぇ~……。何が特別なわけ?」


芳樹は興味なさそうに、視線を落として冷たく返事を返す。

どうせ、世間の体裁かなんかの話だろうと高を括っていた。


「一週間前……母さんが、交差点で車に跳ねられて、事故に遭った」


ドクンッ――!


心臓が破裂するかと思うほどの衝撃が走り、芳樹は気だるそうな態度から一瞬で激しく身を乗り出した。


「……生きてんのか!?」


食い気味に、声を荒げて芳樹が尋ねる。


「生きてる。命に別条はない。ただな、……母さんは、野村さんを追いかけていたみたいなんだ」

「………はぁ?野村のおじさんを?なんでだよ」

「どうやら、毎日ずっと野村さんの家の前で張り込んで、必死に追いかけ回していたらしい」

「……………」


芳樹は、それ以上何も言えなくなり、ゆっくりと身体を反らせて、面会室の白い天井を見つめた。


芳樹は天井を見つめたまま、静かに話し出した。


「……俺さ、親父。……野村のおじさんと、会ったんだよ」

「え……?」

「一週間前に。たぶん、母さんがその事故に遭った、その日の夜にさ……」


芳樹の記憶は、あの静まり返った一週間前の刑務所の特別室へと、静かに巻き戻っていった。



──この一週間前。

野村秀夫は裁判所の窓口で、ただ「この終わらない現実から逃げ出したい」という悲鳴のような『本懐申請』を終え、その足で、逃げるようにして芳樹のいる刑務所へと急いでいた。


沙知から全力で走って逃げ、目の前で彼女の事故を目撃したため、彼には今、自分の車がない。

夕暮れの街を、電車を何度も乗り継ぎ、最後はタクシーの運転手に無理を言って、ひたすら刑務所へと車を急がせた。


(………早く、一秒でも早く、全部終わらせたい)


その一心だけで、秀夫はすっかり暗くなった夜の空を、タクシーの窓ガラスに額を押し付けながら、ぼーっと眺めていた。

やがてタクシーは、街外れにある刑務所の巨大な門の前に到着する。


料金を支払う際、バックミラー越しに見えた運転手の顔には、夜中にこんな場所へ駆け込む秀夫に対する、どこか深い哀れみと、同情の光が籠もっているように見えた。


世間はみんな、知った口で俺たちを品定めするのだ。


「……はぁ?本懐の実行ですか?こんな夜中にですか?」


受付の前に立っていた刑務官には、明らかに不審がられ、迷惑そうな顔をされた。


「………本当に、今からやるんですか?」


中に通され、独房へと案内される間も、対応した担当の刑務官はマニュアルをめくりながら心底面倒くさそうな態度だった。


だが、秀夫の頭の中には、もう『今、ここで全てを終わらせる』以外の選択肢は残されていなかった。

今夜を逃せば、自分はもう二度と、引き金を引く覚悟を保てない。


刑務官に促されるまま、辿り着いた重い防音扉の部屋。

部屋の中央、鉄の椅子に座らされていたのは、手足を厳重に拘束された中山芳樹だった。一週間前のあの日、壁に頭をぶつけて絶叫していた、あのクシャクシャの顔の若者。


「……お、おじさん……」


アクリル板のない、剥き出しの空間。

視線を向けた芳樹の声に、秀夫はポケットからゆっくりと、ここへ来る途中で買った、安い家庭用の包丁を取り出した。


「………芳樹。……悪いな」


そう呟いた秀夫の右腕は、今にも包丁を落としそうなくらいにガタガタと激しく震えていた。


カチカチ、カチカチと、奥歯が鳴る嫌な音が室内に響き渡るほど、その部屋は不気味に静まり返っていた。


「……おじさん!!どうか!殺してください!」


突如として、芳樹の剥き出しの絶叫が、室内の静寂を激しく引き裂いた。


「お願いします!」


芳樹の声に秀夫は唖然とする。


「俺は、もう一秒だって生きていたくないんだ!隼人を殺しといて、自分だけ生きてるなんて耐えられないんだよ!」

「芳樹……お前……」

「隼人を殺して、本当に、本当にすみませんでした……っ!だから、どうか!おじさんの手で、俺を今すぐ殺してください!!」


芳樹の瞳からは、涙は一滴も流れていなかった。

ただ、すべてを受け入れる覚悟を決めた真っ直ぐな目で、秀夫の震える目を真っ正面から見つめて、はっきりと、大声で懇願していた。


「………」


事ここに至って、本当の『覚悟』を決めていなかったのは、被害者であるはずの秀夫のほうだった。


秀夫は、自分より遥かに若い芳樹の本物の贖罪の気迫に、完全に圧倒され、気圧されていた。


奥歯をカチカチと情けなく鳴らし続けているのは、包丁を握った秀夫のほうだった。


「……殺してくれって、お前……そんな簡単に……」

「隼人は、俺のせいで死んだんです!」


芳樹は手足の拘束具をガタガタと鳴らしながら、必死に言葉を重ねた。


「俺が、隼人を殺しました!あの夜、薬を用意したのも、酒を無理やり買ってきたのも、全部俺です!ドライブに行こうって誘ったのも、スピードを出したのも、全部、全部俺のせいです!だから……本当に、すみませんでした!!」


そう言って、逃げも隠れもしない真っ直ぐな目で自分を見つめる芳樹の姿。


それを見つめているうちに、秀夫の脳裏に、かつての眩しいほどに温かった、あの頃の日常の光景がありありと蘇ってきた。


隼人と芳樹が、二人で泥だらけになって悪さをした時。

叱るために二人をリビングの前に立たせると、芳樹はいつも、自分の身の危険なんてお構いなしに、隣にいる隼人を必死にかばっていた。

少なくとも、秀夫が二人を本気で叱りつけると、まだ小さかった芳樹が、必ず前に一歩踏み出して、


『全部、俺のせいです!』


そう言って、小さな頭を必死に下げていたのだ。

あの頃と、何一つ変わっていない。

この期に及んで、あいつはまた……死んでしまった隼人を庇って、すべての泥を自分一人でかぶって、俺に殺されようとしてくれている。


それを思い出した瞬間、秀夫は完全に身体の動きを止め、ペンを握る手が止まるように、包丁を持つ腕の力が抜けていった。


(……格好悪いな、俺は)


周囲のプレッシャーや、沙知の狂気から逃げたいがために、こんな子供の命を奪おうとしていた自分の浅ましさ。

そう自覚した瞬間、不思議と、秀夫の肩から重い鉄の枷が外れたかのように、すっと心が軽くなっていくのを彼は感じた。


(ごめんな、知子……)


「……芳樹。俺さ、……もう、やめるわ」


憑き物が完全に落ちたような、穏やかで静かな顔で秀夫は言った。


目の前で起きている状況が全く飲み込めず、芳樹はポカンとしたマヌケな顔をしていた。


「……息子の親友を殺す父親にはなりたくねぇな」


秀夫はそう優しく微笑むと、背後に控えていた、事の顛末を黙って見守っていた刑務官に向かって、真っ直ぐに向き直った。


「……本懐の、撤回をお願いしたい」


刑務官も、その想定外の言葉に、呆然と立ち尽くしていた。


「…………本当に、いいのか?撤回すれば、あなた自身の立場が……」

「いいよ。もう、腹は括ったから」


秀夫はそれだけを言い残すと、驚愕に目を見開く芳樹の姿に背を向けた。


「いいんですね?」


刑務官に何度確認されても、秀夫は何も語らない。

包丁を床に置いた秀夫の手には、手錠がはめられ、刑務官とともに静かに部屋を出て行った。




──その夜、秀夫が本懐を撤回した頃。

静まり返った秀夫の家では、何一つ動くものはなかった。


「耐えられない」


そう滲んだ文字で書かれた紙は、もう動かない細い指に握られていた。


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