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第7話 盲願

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



あの薄暗い独房の中で、結局、被害者遺族への「謝罪文」は相変わらず完成しないままだった。

中山芳樹は、来る日も来る日も、同じように便箋に向かっては文字を書き、それを引き裂いて丸めた紙屑を、床の上へと積み上げていた。

一体、何枚の紙をこれまで無駄にしたのか、もう数える気すら起きない。


「……謝って、意味なんてあんのかよ」


芳樹は、自分が紙の上に書き連ねた綺麗な言葉の羅列に、何一つ意味を感じなくなっていた。


「こんな紙切れを今更もらったって……隼人は二度と帰ってこねぇんだ」


ぽつりと呟いた芳樹の脳裏には、かつて一緒に笑い合っていた、野村家の温かい家族の姿が、鮮明な追憶となって想像できた。

優しかった秀夫おじさん、いつもお菓子をくれた知子おばさん。

そこには当然、生きて笑っている親友の隼人の姿もあった。

もともと隼人とは、小学校からの付き合いだ。

当然、その両親の顔も、家族の温もりも、自分の親と同じくらいによく知っている。


(その人たちに、俺は謝罪文なんて。……そんなの、ただの自己満足じゃねぇか)


「………もう、いいか」


自責の果てに、芳樹は小さくそう呟くと、右手で握っていたペンを、己の喉元に向けて全力で突き立てた。

これで、すべてが終わるはずだった。


グニャリ――。


だが、鈍い感触と共に、ペンの先端は折れ曲がり、芳樹の皮膚を傷つけることはなかった。

刑務所の中で支給される筆記用具には、安全対策が施されている。

刃物としては絶対に機能しないよう、中途半端な柔らかい素材が利用される。


自ら死ぬことすら、檻の中では許されない。


「………なんで……!」


自分の身体すら自分の意志で終わらせられない不条理。


「なんでだよ!なんでだよ、死なせてくれよ!!」


芳樹は狂ったように叫ぶと、硬いコンクリートの壁に向かって、自分の額を激しく打ち付け始めた。


ゴンッ、ゴンッ


鈍い音が室内に響く。

何度も、何度も、額から血が滲み出ても関係なく、自傷行為を繰り返す。


「おい!何をしてる、やめろ!!」


その異様な物音を聞きつけた刑務官たちが、慌てて重い鉄のドアを開けて独房の中へと飛び込んできた。


「やめろ!押さえつけろ!」


「ああああああああああああ!!」


三人がかりで床に組み伏せられ、自由を奪われ、完全に羽交い締めにされながら、芳樹は喉を引き裂くような悲鳴を上げて絶叫した。

その顔は、己の罪の重さに耐えかねた涙と鼻水で、クシャクシャに濡れて歪んでいた。




──中山沙知は、あの夜、駅前の繁華街で野村秀夫の姿を目撃してからというもの、ここ数日間、生きた心地がしていなかった。

いつ自分の目を盗んで、あの人が裁判所へ申請に行ってしまうか分からない。

そんな強烈な猜疑心と疑念だけに、彼女の脳は完全に支配されていた。


「芳樹を守らなくちゃ……私が、芳樹を守るの……」


うわ言のように同じ言葉をブツブツと呟き続ける。


極度の睡眠不足と精神的な疲弊によって、目の下には黒く深い隈が刻まれ、沙知の容姿を歳不相応に老婆のように老け込ませていた。

もはや自宅に帰ることもなく、車を野村家の前に停め、何日も寝ずに張り込みを続けていた。


「芳樹を守る……芳樹を……」


ガチガチと小刻みに震える手で、ハンドルを強く握りしめる。


ガチャ――。


その時、静かに音を立てて、野村家の玄関のドアが開き、中から秀夫が出てきた。

秀夫は玄関の隙間から、家の中にいる知子に向かって何か、一言二言、優しい言葉をかけているように見えた。


バタンッ!!


その姿を見た瞬間、沙知の理性が消し飛んだ。彼女は勢いよく車から飛び出していた。


「野村さん!!」


近所中に響き渡るような声で沙知が叫ぶと、秀夫は一瞬、心臓を撃ち抜かれたかのように驚いた表情になり――


そして、次の瞬間には、沙知から逃れるようにして一目散に走り出した。


(なんで?なんで?なんでだよ!?)


全力で疾走しながら、野村秀夫の頭の中は完全にパニックを起こして混乱していた。


(なんで、沙知さんが、また俺の家の前にいるんだ!?ずっと見張られていたのか!?)


背後から迫る影。

秀夫は前だけを見つめて走り続ける。

歩行者信号が赤に変わろうが、そんなことはもう関係なかった。


(怖い!怖い!怖い!)


それは、我が子の仇を討つという気高き復讐心などでは決してなかった。


ただの恐怖だった。


秀夫はこれまで、会社や近所のプレッシャーに耐えながら、本懐の申請を出すべきかどうか、ずっと中途半端に悩み続けていた。

むしろ、我が子の親友を殺す不条理さに、心の中では申請には完全に後ろ向きだったのだ。


(おかしいって!間違ってる!狂ってる!)


ただひたすらに、闇雲に足を動かして走る。

理由なんてない。

ただ、この最悪な現実から、一秒でも早く逃げ出したかった。


キキィイイイイイイーーーッ!!ドォンッ!!


突如として背後から聞こえてきた、鼓膜を破らんばかりの激しいタイヤの摩擦音と、肉体が固い鉄の塊に激突する悍ましい大音響。


秀夫は一瞬、心臓が凍りついたように立ち止まり、恐る恐る後ろを振り返った。


「あ……嘘だろ……。沙知、さん……」


十数メートル後方、交差点の真ん中で、アスファルトの上に崩れ落ちている沙知の姿があった。

秀夫を追いかけようとして、見通しの悪い交差点で、信号を無視して道路に飛び出し、直進してきた乗用車にはねられたのだ。


頭部から血を流しているが、微かに胸が上下している。

辛うじて息はしているようだった。


「おい、事故だぞーっ!」

「誰か救急車呼べ! 早くしろ!」


騒然とする夜の街に、一瞬にして野次馬たちの人だかりが集まっていく。


(狂ってる……もう、こんな生活、嫌だ……)


秀夫は、その場にへたり込んで泣き叫びそうになるのを、奥歯が割れるほどの力で必死に堪えた。


我が子を失い、世間から後ろ指を指され、子供の親友の母親が目の前で倒れている。


(終わらせたい。もう、これ以上誰も傷つかないように、この地獄を、今すぐ全部終わらせたい……!)


警察も救急車も待たなかった。

秀夫は沙知から目を反らし、逃げるように踵を返した。

その足は人混みをかき分けて、裁判所に向かっていた。


その日のうちに秀夫の申請は受理された。

認定証には【殺害】の二文字が、冷たく記されていた。


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