第6話 偽願
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
ガサガサ、と硬い紙が擦れる音のあと、また一つ、クシャクシャに丸められた紙屑が床に転がり、山を作った。
「ぁああああああっ!!」
薄暗い独房の片隅で、中山芳樹は頭を掻きむしりながら、一人、耐えかねたように大きな声を張り上げて叫んだ。
「静かにしろ!騒ぐな!」
即座に、冷たい鉄格子の外の廊下から、夜勤の刑務官の鋭い怒声が飛ぶ。
だが、芳樹の耳にはもう、そんな警告など届いていなかった。
芳樹は被害者遺族である野村家へ向けて「謝罪文」を書くようにと、何度も促されていた。
義務としてペンを握り、便箋に文字を書き込んでは破り、クシャクシャに丸めて、コンクリートの壁に向かって全力で投げつける
――ここ数日、彼はその無意味な行為をただ不気味に繰り返していた。
便箋に書き連ねた文字。
『大変、申し訳ありませんでした。深く反省しています』
(………ふざけんな)
声にならない怒りと共に、芳樹は己の書いた文字をグシャグシャに塗り潰した。
そんな、中途半端で、どこにでもある記号のような言葉を並べて、一体何になるというのだ。
(頭を下げて、それで済む問題じゃねぇだろ………!)
独房の冷たい天井を見上げながら、芳樹は何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、あの夜の隼人の姿を考えていた。
(なんで……俺じゃねぇんだ)
病院のベッドの上で母さんから隼人の死を聞かされたとき、脳のどこかが麻痺していて、全く実感が湧かなかった。
だが、刑務所で毎日を消費していくうちに、その命の重さが彼の心をじわじわと圧殺し始めていた。
「ああ………死にてぇ」
不意に口から出たその言葉。
それが、罪の重さから逃げたいだけの甘えなのか、それとも本物なのか。
その言葉の真偽は、今の芳樹自身にも分からなかった。
ただ、生きてここにいることの不条理さに、彼の精神は完全に焼き切られようとしていた。
「はぁ……クソ」
──その同じ頃、あの賑やかなスーパーマーケットの駐車場で、沙知をなんとか振り切った野村秀夫は、そのまま自分の家に帰る気にはどうしてもなれなかった。
だが、行く当てがあるわけでもない。
秀夫は独り、駅前のビルの上階にある漫画喫茶の中にいた。
車を近くの薄暗い立体駐車場に放り込み、一人で肩を落としながらトボトボと夜の街を歩く自分の姿は、秀夫本人が客観的に見ても、酷く情けなく思えたに違いない。
「外の世界と、完全に隔離された場所は……もうここだけってことか……」
狭い個室のリクライニングシートに深く身体を沈め、秀夫は小さく呟いた。
天井に剥き出しで張り巡らされた、冷たい銀色の配管を、死んだような目で見つめる。
(『申請するな』ってか………)
沙知だけではない。
会社の同僚も、上司も、近所の顔なじみたちも、全員が自分たちの都合だけで
「被害者面して親友の子供を殺すな」
「穏便に済ませろ」
と、秀夫にその他大勢の平和を押し付けてくるのだ。
漫画を読みに来たわけではなかった。
ただ、外界の雑音から逃れられて、タバコが吸えて、ドリンクがあって、誰も俺の顔を知らない一人になれる空間。
それだけの理由で、彼は数百円の金を払ってこの狭い檻の中に逃げ込んでいた。
(俺は……芳樹を、ただ法律に従って裁いてほしいと願っただけなのに…)
紫煙が狭い個室の中に立ちのぼる。
だが、その煙は、秀夫の問いかけに何の答えもくれない。
(でも……もし、申請すれば、この地獄のような生活から、すべて解放されて終わるのかな)
フィルターまで赤く焼け落ちたタバコを、銀色の灰皿に強く押し付け、秀夫はすぐに震える手で二本目を口にくわえた。
(………本当にやるのか?人殺しを。……俺の手で、あの芳樹を、殺すのか?)
まとまらない思考の濁流の中で、完全に理性が麻痺していた秀夫は、自分が火をつけた二本目のタバコが、前後逆になっていることにすら、気が付かなかった。
(できるのか……?仇を討つ覚悟なんて、本当の俺に……)
そうやって、終わりを願うような、けれど引き返せない現実の狭間で、秀夫がまとまらない思考をグルグルと続けていた、まさにその時。
漫画喫茶が入っている、駅前の古い雑居ビルの前の道路に、一台の車がハザードランプを点滅させて停まっていた。
運転席でハンドルを握りしめ、窓越しにビルを見つめていたのは――中山沙知だった。
「なんで……?なんでこんな時間に、駅前に野村さんがいるの……?」
沙知は、スーパーで振り切られたあとも、秀夫の車を追ってきたのだ。
彼女は食い入るように、ビルの暗い入り口の自動ドアを見つめ続けている。その瞳には、夜の街のネオンがギラギラと不気味に反射していた。
「まさか……!あそこから、明日そのまま裁判所へ向かって……本懐の申請に、行くつもりなんじゃ……!」
沙知はハンドルを強く握りしめたままの姿勢で、一歩も動けずに固まっていた。
駅前の喧騒は、二人の耳には入っていなかった。




