第5話 忍願
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
「おい、見ろよ。あいつ、あいつだろ?」
「あ?あぁ、あのニュースになってたやつな」
無機質なコンクリートに囲まれた刑務作業の工場内。
木材を削る単調な音の隙間から、後ろに並ぶ受刑者たちのひそひそ話が聞こえ、中山芳樹の背中を指差す気配が伝わってきた。
「酒飲んで薬やって、事故を起こしたんだろ?」
「自分の相方を殺しといて、自分だけ生き残ったんだってよ」
そんな悪意に満ちた言葉が、毎日、何本もの鋭い針のように芳樹の背中を深く刺していく。
「こらぁ!そこぉ!手を動かせ!」
見張りの刑務官の鋭い怒号が飛び、工場内は一瞬で静まり返る。
「…………」
芳樹は眉一つ動かさず、ただ視線を冷たい手元に落としたまま、黙々と割り当てられた作業を続けていた。
こんな針のむしろのような刑務所生活に、慣れることなど到底なかった。
ただ、毎日同じことの繰り返し。
他の受刑者たちからの執拗な暴言や無視。
そして、面会室のアクリル板の向こう側に、
「芳樹、大丈夫? ご飯はちゃんと食べてるの?」
そうやって定期的に現れる、酷くやつれた顔の母。
「……………」
誰の顔も、見たくなかった。
誰とも、一言も話したくなかった。
(隼人………)
失ってしまった大切な日常。
この灰色の壁の中で無駄に消費されていく日々。
時が経つにつれて、隼人の命の重さが、芳樹の心の中でより一層、深く重く増しているように思えてならなかった。
「中山さん。ちょっといいですか」
刑務所の重い鉄扉から出て行こうとした時、背後から声をかけられ、中山沙知は足を止めた。
毎月、法律で定められている面会の回数制限を、一日も欠かすことなくすべて限界まで使い切る沙知の存在は、この刑務所の刑務官たちの間では、とうに知れ渡っていた。
「お母さん、息子さんが心配なのはよく分かりますがね。面会日でもないのに、毎日この施設の周りをウロウロされるのは、正直言って困るんですよ」
そう怪訝そうな目を向ける刑務官に、沙知は感情の消え失せた冷たい目を返した。
沙知は、面会できない日であっても、朝から晩までこの刑務所の周囲に車を停め、張り込みを続けていた。
野村夫婦のどちらかが、芳樹を殺しにここにやって来ないかを監視するためだ。
「別に、私が見てるのはここだけじゃないですから」
沙知はボソリと呟いた。
刑務所に加えて、裁判所、野村家の玄関前。
本懐の申請を絶対に行わせないよう、彼女は毎日、取り憑かれたように街中を動き回っていた。
「あなたには分かりませんよ。……我が子を『人殺しの標的』にされる、母親の気持ちなんてね」
それだけを吐き捨てるように言うと、沙知は乱暴に自分の車のドアを閉め、エンジンをかけて次の目的地へと向かった。
その道中、沙知は市内のスーパーマーケットの駐車場に車を滑り込ませた。
車を停め、ふとフロントガラスの向こうの景色に目をやった瞬間、
「…………え?」
沙知はハンドルを握ったまま、息を呑んで硬直した。
数台離れた駐車スペースで、買い物の袋を抱えて車に乗り込もうとしている男の背中――野村秀夫だった。
「野村さん!ちょっと!ちょっと待って!」
沙知はシートベルトを外すと車から飛び出し、秀夫に向けて大足で詰め寄った。
「まさか……!本懐の申請、まだしてないよね!?出してないよね!?」
沙知は秀夫の腕を強い力でガシッと掴むと、必死の、鬼気迫る表情で顔を覗き込んだ。
(やだ……何、あの人たち?)
(あれって、確か去年ニュースになってた、事故の……?)
(こんなスーパーの駐車場で、何やってんの……)
(お母さんかしらね……?みっともないわね、やめなさいよ、外で大声出すなんて……)
買い物を終えた周囲の一般客たちが、軽蔑と好奇の入り混じった目を向けながら、ヒソヒソと浅ましい声で噂し合う。
他人の家庭の悲劇など、外野にとってはただの「みっともないエンタメ」に過ぎないのだ。
「………してませんよ!離してください!」
秀夫は沙知の様子に身震いしながら、掴まれた腕を乱暴に振り払い、運転席へと滑り込んでドアをバタンと閉めた。
「お願いします!野村さん!申請だけはしないでください!!」
沙知は車のフロントガラスの前に立ち塞がるようにして、周囲の目も気にせず、地面に擦りつけるほどの勢いで何度も深く頭を下げた。
秀夫は、閉め切った車内の中から、頭を下げ続ける沙知の姿をフロントガラス越しに見つめていた。
秀夫の唇が、エンジン音の向こうで何かを静かに呟いているように、沙知の目には見えた。




