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第3話 空願

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



ピンポンピンポンピンポンッ――。


我が家の周囲で起きる嫌がらせは、日を追うごとにさらにエスカレートしていった。


『合法的に人殺しにするな』

『お前らの子供も薬をやっていた分際で、被害者面して申請を出すな』


そんな悪意に満ちた言葉が殴り書きされた匿名のビラが近所に大量に撒かれ、朝起きると、我が家の白い外壁には真っ赤なスプレーで汚い落書きがされていた。

どれだけ怒りに震えながら落書きを消そうとしても、一歩外に出れば、通りの向こうからこちらをじっと盗み見ながら、ヒソヒソと浅ましい顔で噂話をする近所の連中がいる。

その視線の冷たさに、こちらの精神が磨り潰されそうだった。


「なんで………なんで私たちが……」


妻の知子は、いつしか近所の人の目に触れることすら恐れるようになり、人目を盗むようにして静かに精神科へと通い始めていた。


これといった明確な病名がついているわけではない。

ただ、あの鳴り止まないチャイムの音と、周囲の鋭い視線のせいで、心がじわじわと壊れかけていることだけは、夫である俺の目から見ても明らかだった。


地獄は家の中だけでは終わらなかった。

俺の職場にまで、あの事件と本懐法の噂が立ち始めていたのだ。


(野村さん、本懐の申請、出すのかな?)

(まさか、出さないでしょ。)

(ネットのニュース見たけど、2人とも薬やって自爆した事故らしいじゃん)

(自業自得なのに、それでやったら流石に頭おかしいって)


給湯室の陰から、デスクのパーテーションの向こうから。

こちらの耳にわざと聞こえるような音量で、コソコソと喋る同僚たちの声が、四方八方からトゲのように突き刺さる。


「野村くん。ちょっと……」


午後、上司に名前を呼ばれ、俺は静まり返ったオフィスの別室へと連れて行かれた。


ドアが閉まると、上司はいつになく沈痛な面持ちを浮かべて、デスクを挟んで話し出した。


「君の家庭の、噂は色々と聞いているよ。……本当に、残念だったね」

「はい……」

「でもね、野村くん。正直に言って、会社としては少し困っているんだ。変な噂が広がりすぎている。君が本懐を申請するならする、しないならしない。それできっぱりと、白黒つけて言ってもらわないと、周りの人間もどう接していいか分からないんだよ」

「…………」


俺は唇を噛み締め、返事ができなかった。


決められるはずがなかった。


我が子を殺された怒りと、加害者が息子の親友であることの狭間で、今も心が千々に乱れているのだ。

それを、赤の他人に「早く決めろ」と急かされる理不尽。


「社内の人間が噂し合っているくらいなら、もう、こうなった以上は仕方がないと目を瞑るよ。でもね、これが社外の取引先や顧客の耳にまで届くとなると、ちょっとさぁ………うちとしても、マズいんだよね」


結局は、会社の体裁か。


「それにね、一応『本懐法』の建前としては、実行者であることを理由に解雇できないんだ。一応、国から君の雇用を維持するためのそれなりの補助金は出るけどさ。……でもねぇ、この重苦しい状況のまま、会社に居座られるとなるとねぇ………」


上司の口から、歯切れの悪い、けれど明確な拒絶の言葉が並ぶ。


「もし申請するにしても、しないにしても、このまま状況が悪化して会社の業務に支障が出るようなら、最悪、退職してもらう可能性もある。できれば……君の方から、自主的に動いてもらえると、お互い傷がつかなくて済むんじゃないかな」


…………退職。


一体、俺が何をしたというのか。


死んだ隼人に泥を塗られ、今度は俺の人生まで奪おうというのか。


「できることなら、申請書を出す前に身を引くか、あるいは『申請しない』と今すぐここで明言するか。早めに決めてほしいんだ」


…………何を言っているんだ、この男は。


「できるだけ、早めに頼むよ」


上司はそれだけを言い残すと、冷淡に椅子を引いて部屋を出て行った。


一人残された野村秀夫は、薄暗い会議室のテーブルで、俯いたまま指一本動かすことができなかった。


どれくらいの時間が過ぎただろうか。

秀夫はゆっくりと重い顔を上げ、腕時計の針を睨みつけた。

文字盤の針は、すでに定時を大きく回った夕方の時間を指している。


「………帰ろう」


小さく呟いたものの、あの沙知がドアを叩き続けているであろう我が家へ、今すぐ真っ直ぐ帰る気にはどうしてもなれなかった。

秀夫はビルの片隅にある無機質な喫煙所に足を運び、震える手でタバコに火をつけた。


紫煙を肺の奥まで吸い込みながら、先ほどの上司の冷酷な言葉を、何度も何度も頭の中で反芻する。


国が作った「本懐法」の条文が、頭の片隅で虚しく滑り落ちていく。


〜本懐法 第19条〜

本懐実行者に対する不利益取扱いの禁止

何人も、本懐実行者であること又は本懐実行者であったことを理由として、本懐実行者本人、その配偶者又は三親等内の親族に対し、不利益な取扱いをしてはならない。

2 前項の不利益な取扱いの具体的内容は、別途省令で定める。


〜本懐法 第21条〜

事業者への補助

本懐実行者を雇用する事業者は、本懐実行者の休職その他本懐の遂行に伴って必要となった費用について、国に対し補助金を申請することができる。

2 前項の補助金の額及び手続は、別途省令で定める。


「不利益取扱いの禁止」も、「事業者への補助」も、ただの絵に描いた餅だった。


むしろ、この法律の存在自体が、秀夫を「腫れ物」として社会から弾き出すための最強の凶器に変わっていた。


「……うちは、被害者なんだけどな………」


ポツリと溢れた、魂の底からのその悲痛な一言は、白く儚いタバコの煙とともに、冬の冷たい夜空へと虚しく消えていった。


「もう……悪者でもいいか……」


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