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第2話 自縛

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



カードキーを差し込み、下川慎介は独り、ビジネスホテルの狭い部屋に入った。

壁際に置かれたベッド、小さなデスク、それだけが収まった無機質な空間。

靴を脱ぎ、コートも脱がずにベッドの端へ腰を下ろすと、部屋の静寂に耐えかねて、手元にあったリモコンでテレビをつけた。


画面の向こうで、バラエティ番組の賑やかな笑い声が弾ける。

それがあまりに遠い世界の出来事のようで、慎介の指は自然と音量を絞っていた。


「はぁ…………」


部屋の隅に吸い込まれていくような、深い溜息が漏れる。

ベッドのマットレスに沈み込みながら、彼はこれまでの、あの地獄のような日々を思い返していた。


『被告人、丸山悟を懲役17年の刑に処す』


法廷の硬い椅子に座りながら聞いた、あの判決の瞬間。

裁判長がそれ以外に何を言っていたのか、今となっては全く覚えていない。

法服を着た人間たちの顔も、傍聴席のざわめきも、すべてが水の中に沈んだように歪んで見えた。


しかし、ただ一つだけ、脳裏に焼き付いて離れない事実がある。


最愛の娘を陵辱し、その尊厳を泥靴で踏みにじって殺した男が、たった17年しか刑罰を受けないということ。


その冷酷な数字だけは、強烈に、狂おしいほど鮮明に記憶していた。


「17年………」


壁の薄いホテルの部屋で、改めてその刑罰を呟いてみる。


17年後、あの男はまだ40代だ。

刑務所を出て、また新しい人生を始めることができる。

しかし、娘の愛理の人生は二十一歳で止まったままだ。


彼女には、新しい明日も、未来も、二度と訪れない。


あまりにも、軽すぎる。


法が下した「裁き」は、下川にとって到底受け入れられるものではなかった。


『夢は特にないかな?でもね、大学に行ったらなにか見つかるかもしれないしさ、一人暮らし、いいでしょ?お願い!』


目を閉じれば、リビングで、両手を合わせて拝むように頼み込んできた愛理の顔が浮かぶ。

あの子は小学生の頃から、そういう仕草が変わらなかった。


父親を説得しようと、少しニヤけたような、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


『受かった!受かったよ!経済学部!』


合格の通知にリビングを飛び跳ねて騒ぐ娘の姿。


あの時は、眩しいほどに微笑ましく、これからの彼女の人生に幸あれと、心から願っていたはずだった。


『行ってきます』


地方から都会へ向かう高速バスの停留所。


大荷物を抱えた愛理は、これから頑張るとも、何かしたいとも言わず、ただそう短く言って家を離れた。


その最後の一言に対して、父親である自分がなんと返したのか。

その記憶が、どうしても思い出せない。


「いってらっしゃい」


あの時、そう言っただろうか。


「頑張ってこい」


背中を見送りながら、そんなありきたりな言葉すら言わなかったかもしれない。


「夢は見つかりそうか?」


………いや。

きっと、言っていない。


照れ臭さか、あるいは寂しさの裏返しだったのか、ぶっきらぼうに頷いただけだったような気さえする。


手繰り寄せようとする記憶の糸は、いつも中途半端なところで千切れてしまう。


愛理が大学へ進学し、あの家を離れてから、我が家の中は少しずつ、けれど確実に変わっていった。


妻の晴海は、主人のいなくなった愛理の部屋を、毎日欠かさずに掃除していた。

机の上の埃を払い、シーツを替え、窓を開けて風を通す。


「帰ってきたときに汚いと嫌でしょ?」


晴海は少し寂しそうな、けれど嬉しそうな顔でいつもそう言っていた。


兄の陽太は大学を卒業し、地元の会社に就職して真面目に会社勤めを続けている。

そして、上の娘である美冬は、猛勉強の末に警察官になった。


それぞれがそれぞれの人生を歩み、少しずつ大人になっていく。

そこには確かな家族の日常があったはずだった。


「家は………大丈夫だろうか?」


ふとした気持ちの隙間に、残された家族の顔が次々と浮かび上がってくる。

自分が『本懐』という道を歩むと決めた今、あの家はどうなっているだろうか。


家族と離れ、食事はコンビニの弁当だ。

夕暮れだというのに客のいなかったコンビニの店内は余計に慎介を孤独にした。


晴海は泣いていないだろうか。

陽太と美冬は、どんな顔で夕食を食べているだろうか。


その家族を思い出す温かい感情を、ポケットの中で不意に震えたスマートフォンの冷たいバイブ音が切り裂いた。

画面を開くと、政府が提供する「本懐実行者専用アプリ」の管理画面が表示される。

そこに表示されたのは、慎介のこれからの生活を縛る、冷徹な法制度の文言だった。



〜本懐法 第22条〜

私生活の制限

本懐実行者は申請した本懐が遂げられるまでの期間、配偶者及び三親等内の親族の住所に立ち入ってはならない。

また、その者の立ち入る場所、車両等これらに準ずる場所に立ち入ってはならない。

違反した場合、その資格を失効する。

ただし、本懐対象者がその本懐実行者の三親等内の親族の場合にのみ、この限りでない。



スマートフォンの青白い光が、慎介の顔を虚しく照らす。

家族のために、泥をかぶる覚悟で人殺しの認定証を受け取った。

しかし、その法律が突きつけた代償は、家族との繋がりをすべて断ち切るものだった。


慎介はスマートフォンをベッドに放り出すと、仰向けに横たわり、天井のシミを見つめた。

終わるまで、あの家に帰ることはできない。


晴海が磨き続けた愛理の部屋を、この目で見ることは、しばらくの間できない。


孤独の室内で、エアコンの音がやけに大きく聞こえていた。


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