第1話 繋縛
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
「申請は受理されました。認定証をお渡ししますので、もうしばらくお待ちください」
プラスチックのパーテーション越しに、女性職員が事務的な声を響かせる。
役所の住民票発行窓口と何ら変わらない、抑揚のない声。
それが、合法的な殺人の許可を待つ男に向けられた言葉だとは、誰も思わないだろう。
そう言われて、一人の男は、裁判所の『本懐申請窓口』の前で立ち尽くしていた。
夕暮れ時の薄暗い廊下。
窓の外を見れば、街路樹の葉がすっかり落ち、冷たいコンクリートのビル群がそびえ立っている。
季節は秋から冬に向かっている。
肌を刺す風が、そのまま乾いた心を撫でていくように感じた。
どれだけ季節が巡ろうと、どれだけ時間が流れようと、確固たる事実が一つだけある。
亡くした娘は、二度と帰ってこない。
「これでよかったのか?」
男は独り呟いた。
ここに至るまでの八ヶ月間を思い出していた。
後悔とは違う、もっと泥濘のようなどろどろとした、けれど頼りなく揺れる「迷い」のような気持ちが、不意に口から出てしまったのだ。
八ヶ月前。
まだ、あの温かい日常が壊れる前。
彼は、娘との電話で激しい口論をしていた。
『なんで、先週帰ってこなかった!?』
受話器の向こうの娘に向けて、男は声を荒らげ、怒鳴ったのだ。
『忙しいって言ってるじゃん!単位も就活もあるんだよ!?』
娘は怯むことなく、尖った声で父に言い返した。
確かに就職活動や講義で忙しいのも事実だったのだろう。
娘は大学進学を機に県外へ出た。
都会での生活は、娘を少しずつ変えていったように思えて寂しかった。
『だからって婆ちゃんの一周忌だぞ!? 日帰りでもいい、数時間でもいいから顔を出すべきだろう!?』
『はいはい。わかりました。そのうち帰ります!』
投げやりな言葉を最後に、ツーー、ツーー、と無機質な電子音を残して、愛理は電話を切ってしまった。
それが、娘の肉声を聞いた最後になるとも知らずに。
『都会に出て楽しいことがあるんじゃない? 大人ぶってるだけよ、ほっとけば?』
あの夜、妻はリビングでテレビから視線を離さずに、他人事のようにそう言っていた。
しかし、慎介の胸の奥には、なんとも言えない納得のいかなさというか、自分の育てた娘が、すっかり見知らぬ他人のようになってしまったような、強烈な距離感だけが残った。
娘をとても遠くに感じた、決定的な瞬間でもあった。
その口論を思い出すたびに、彼は自らの胸をむしり取られるような後悔に苛まれた。
なぜ、娘が殺されなければならなかったのか。
なぜ、数ある人々の中で、自分の娘だったのか。
なぜ、娘を県外の大学に行かせてしまったのか。
なぜ、引き止めもせず一人暮らしを許可したのか。
なぜ、娘との最後の会話が、あんな下らない口論なのか。
脳裏で黒く縺れ合う問いの数々に、答えが与えられることは、これまで一度としてなかった。
「お待たせしました。こちらが認定証になります。紛失や破損、あるいは他者への譲渡や偽造などは、資格の即時失効になりますので、くれぐれもご注意下さい。」
先ほどの職員が、今度は一枚の書類を差し出してきた。
慎介は、ゆっくりとそれを手に取る。
ただの紙だ。
ペラペラとした、どこにでもある、ちゃんと名前が印刷されていた紙だ。
けれど、そこには明瞭な文字でこう刻まれていた。
『対象者の殺害』
申請した内容も、間違いなく、その通りに書かれている。
国家が認めた、合法的な人殺し。
「これで、よかったのか?」
再び口から出た迷いは、裁判所の高い天井へと吸い込まれ、廊下に響く他人の足音よりも弱々しく消えた。
裁判所を出ると、すでに夜の帳が下りていた。
肌寒くなってきた夜風を背に受けながら、独り、駐車場に停めた愛車に乗り込む。
車内の冷え切った空気が、慎介の肺を冷たく満たす。
手元のスマートフォンの明かりを頼りに、改めて手渡された認定証を読み返す。
下川慎介殿⋯
貴殿の本懐は 対象者丸山悟 の殺害⋯
文字の羅列を見つめているが、内容は全く頭に入ってこない。
国が掲げる「被害者遺族の感情の救済」という大義名分が、この紙切れ一枚に凝縮されているというのか。
「こんな、紙切れ。⋯⋯⋯こんなもので⋯」
目を閉じれば、あの日の警察の安置室の光景が鮮明に蘇る。
死んだ娘の遺体には、冷たい白い布がかけられていた。
露出した首筋や手首には、目を背けたくなるような、暗紫色の痣があちこちに残っていた。
それでも、まるでただ不貞腐れて眠っているようだった。
恐い思いをしたに違いない。
誰にも助けを呼べず、見知らぬ男に組み伏せられ、想像もできないくらいの恐怖と痛みに耐えていたはずだ。
その時、父親の私は、何も知らずに実家で眠っていた。
カーステレオの電源を入れる。
不意にスピーカーから流れてきたのは、娘が帰省した際に車内でよく好んで聴いていた、若い子向けのアップテンポなポップスだった。
明るすぎる電子音が、静まり返った車内に鳴り響く。
その軽薄なメロディが、慎介の心にある後悔のトゲを、より深く突き刺した。
お前を苦しめた奴が、のうのうと生きている。
「⋯⋯殺してやる」
そう弱々しく呟いた下川慎介は、震える指でカギを回し、車のエンジンをかけた。
重々しい駆動音が、暗闇の駐車場に響き渡った。
〜認定証〜
下川慎介殿
裁判員裁判対象事件の被害者等による本懐に関する特例法 第8条 本懐実行者の認定 に則り、貴殿を本懐実行者と認定する。
貴殿の本懐として実行を認定する行為は 対象者 丸山悟 の殺害とする。
尚、同法 第10条 罪の限定的免責 に則り、本認定証に記載された行為は刑事上、民事上の責任を問わない。




