第10話 無望 了
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
(死なせて……死なせて……)
暗闇の中で、川井基樹はただ、それだけを心の底から激しく願っていた。
刑務官に連れられて拘置所の地下にある別室へと移された川井は、頭から分厚い黒布の目隠しをされ、口には声を完全に封じるための猿轡を嵌められ、全身を頑丈な拘束椅子に鉄のベルトで固く固定されていた。
身動き一つ取れない極限状態。
だが、彼の心にはどこか諦めと、奇妙な安堵があった。
(ああ、これで、あのクソみたいな惨めな人生が、ようやく終わるんだな)
そう思っていた。
先ほど、あの冷淡な刑務官に言われた言葉を、頭の中でぼんやりと反芻する。
『お前には、本懐が執行されるまでの間、食事等は一切与えられない。水もだ。いいな?』
(これから死刑になるんだ。最後のメシも、水も、今更なんの関係もない)
目隠しをされる前、部屋を移動するまでの間に肌で感じた時間の感覚。
あれは、朝のまだ早い時間だった。
窓の隙間から、憎たらしいほどにまばゆい朝陽が昇ってくるのが見えた。
(朝っぱらから、わざわざ俺を殺しに来てくれるなんて、ありがたいことだ)
だが、川井のその中途半端な覚悟は、最悪の形で裏切られることになる。
これから彼が過ごすのは、一瞬の死刑執行などではない。
本懐法が認可した、「3日間の拷問」という生き地獄の始まりだった。
ガチガチ、と無機質なキャリーケースの音が部屋に響き、目隠しが乱暴に剥ぎ取られた。
眩しい蛍光灯の光に目を細めた川井の前に立っていたのは、夜の街の派手なドレスを着た、けれどメイクがドロドロに落ちた一人の女――赤沢英里だった。
彼女が持ち込んだレジ袋やケースの中には、ホームセンターで手軽に買い揃えたであろう工具や、プロが現場で使うような硬質の建築用道具が、不気味な鈍色の光を放って並んでいた。
英里はすべての道具をデスクに並べ終えると、ゆっくりと川井の前に歩み寄り、冷たく、低く、地獄の底から響くような声で言い放った。
「……あんたは、殺さない」
その一言が、川井の脳髄を突き刺し、彼を深く、暗い恐怖のどん底へと一瞬で叩き落とした。
殺さない?
死ねないのか?
猿轡の奥で川井が狂ったように悲鳴を上げた瞬間、英里の細い腕が、建築用の重い鉄パイプを振り下ろした。
鈍い衝撃音が室内に響き渡る。
刑務官が抑揚のない声で声を掛けた。
「赤沢さん、貴女からの連絡通り、食事も水も与えておりません。午前6時42分にその旨を本人に告知しております。よって、本日午前6時42分より72時間が、貴女の本懐の期間となります。」
そこからの3日間は、凄惨を極めた。
英里の細い指は、迷うことなく工具を握り、部屋には猿轡でくぐもった悲鳴が響いた。
英里は、自分の身体が疲れてくると椅子に座って冷淡に休憩し、息を整えるとまた始め、眠たくなっては寝て、起きては時間に関係なく淡々と始めた。
怒りに任せて怒鳴るのではない。
泣き叫ぶのでもない。
ただ、黙々と、事務的に、我が子が受けた苦痛を犯人の肉体に等倍でコピーしていく。
その防音の施された白い部屋の中にいるのは、英里と川井、そして一切の感情を殺してその執行をただ見届ける義務を負った刑務官のわずか3人だけ。
部屋には、ただ川井が猿轡の奥で叫び続ける、阿鼻叫喚の籠もった悲鳴だけが不気味に木霊し続けていた。
執行期限である3日、時間にして72時間が経過した直後、彼の身体は拘置所内の医務室へと搬送され、医師たちの迅速な治療によって、その命だけは「正確に」助けられた。
生き残らされたのだ。
脳へのダメージによる後遺症がどうなるかはまだ不明だったが、その強烈すぎる肉体と精神へのトラウマから、川井はもはや自力で思考することを失い、廃人のように、うわ言にもならない壊れた言葉を、小さな声でボソボソと呟くだけの抜け殻になっていた。
(ご、ろ、し、て……、死なせて……)
川井のその切実な願望は、事ここに至っては、国がいつか執行するであろう【死刑】のその日まで、絶対に果たされることはない。
死よりも重い生殺しの地獄が、これから何十年も続くのだ。
本懐を遂げた赤沢英里は、再び修の入院する病室のベッドの横に座っていた。
窓の外には、事件の日と同じような、憎たらしいほどに綺麗な夕日が静かに沈んでいこうとしていた。
「おあ……あさぁん」
病院のベッドの上から力ない声が響いた。
赤沢修は視線を向けながら、母親の英里に何かを一生懸命に話しかけていた。
「ん?どうした?」
修の細い呼びかけに応じた英里の声は、夜の店で客に使うような、あの猫撫で声の、嘘っぽく媚びるような甘いトーンでは決してなかった。
少し低く、落ち着いていて、けれど深い温かさを湛えた、ただ一人の息子のための、本物の母親の声だった。
修の瞳は、病室の壁に掛けられたテレビの画面を見つめたまま動かなかった。
画面の中では、ニュースキャスターが険しい表情で速報を読み上げている。
『本日午前、無差別殺傷事件の遺族である津山隆行容疑者が、本懐法第18条の規定により、現行犯で逮捕されました』
画面には、ホテルのロビーで警察官に左右を固められ、絶望的な表情で連行されていく津山隆行の痛々しい姿が映し出されていた。
『津山容疑者は独自の本懐申請を行っていましたが、どうやら、別の方が先に本懐を完遂したようですね』
『はい、たった今入った検察庁からの情報によりますと、川井死刑囚の命は助かっており、現在も生きている、とのことです。これにより、後から申請を出していた他の遺族の資格は自動的に失効し、同法の規定に基づき――』
テレビから流れるニュースの音声が修の声をかき消さないよう、英里は修に顔を近づけた。
修は、ゆっくりと視線を動かし、ベッドの横に佇む英里の顔をじっと見つめて、壊れた発音のまま、掠れた声を必死に紡ぎ出した。
「おぇんえ」
(ごめんね)
「おぅあ゛」
(僕が)
「いひへあ……あ」
(生きてたから)
「ふぅひあへ…ぇ」
(苦しませて)
「おぇんえ」
(ごめんね)
英里はただ、病室の中で、息をすることすら忘れたように立ち尽くした。




