第8話 断望
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
「おあ……あさぁん」
病院のベッドの上から力ない声が響いた。
赤沢修は視線を向けながら、母親の英里に何かを一生懸命に話しかけていた。
英里は、この街のきらびやかで酷く冷たい夜の街、性風俗店で働いている。
生活のサイクルは完全に昼夜逆転していた。
朝日が昇る頃に疲れ果てた体で病室へと現れ、夕日が街を赤く染める時間になると、生きていくため、そして治療費を稼ぐために夜の仕事へと向かう。
毎日がその繰り返しだった。
「ん?どうした?」
修の細い呼びかけに応じた英里の声は、夜の店で客に使うような、あの猫撫で声の、嘘っぽく媚びるような甘いトーンでは決してなかった。
少し低く、落ち着いていて、けれど深い温かさを湛えた、ただ一人の息子のための、本物の母親の声だった。
『本日午前………』
テレビから流れるニュースの音声が修の声をかき消さないよう、英里は修に顔を近づけた。
修は、英里が17歳の時に生まれた子供だった。
相手の男は、当時付き合っていた29歳の既婚男性。
若かった英里の妊娠が発覚した途端、その男は責任から逃げるようにして消えた。
当然のように英里の両親は激怒し、中絶を勧めてきた。
まだ高校生だった娘の未来を心配してのことだったかもしれないが、英里には耳を貸す気など微塵もなかった。
『イヤ!この子は私が育てる!絶対に産む!』
そう頑なに言って周囲の言葉を聞かなかった英里は、通っていた高校を自主退学し、一人で出産に臨んだ。
それからは、まだ癒えきらない体に鞭を打って昼夜を問わずアルバイトを掛け持ちした。
違法であると知りながらも年齢を偽って、夜の深い世界へと身を飛び込ませた。
それが最も早く、確実にお金を稼げる手段だったからだ。
18歳の誕生日を迎えると同時に、英里は両親の家を完全に飛び出し、アパートを借りて親子二人の生活を始めた。
(この子にだけは、絶対に不自由はさせない)
それが、夜の街の泥水をすすりながら生きると決めた、英里の絶対的な決意だった。
(片親だから?未成年の母親だから?そんなこと関係ない)
(両親が揃っている普通の家と何一つ変わらないくらい……それ以上に育ててやる。そんな風に引け目を感じさせることなんて、絶対にさせない)
それから、英里は必死に働き続けた。
夜の仕事は、決して綺麗なものばかりではなかった。
吐き気がするほど嫌なこともあったし、身の危険を感じるような瞬間もあった。
それでも、修が欲しいと言ったおもちゃや服は、すべて惜しむことなく買い与えた。
修が小学校、中学校へ行くようになると、クラスで一番裕福な家庭の子供が持っているのと同じ、最新の学習道具や鞄を揃えてやった。
(この子だけは。この子だけは、惨めな思いをさせない)
自分の仕事が周囲からどう見られているか、どんな汚い偏見の目を向けられているか、英里は痛いほどに自覚していた。
だが、我が子の笑顔を見るたびに、そんな周囲の歪んだ目など、どうでもよくなっていった。
偏見の目など、とっくに気にならなくなるほど、修は彼女の命そのものになっていたのだ。
あの凄惨な事故の知らせを受けたのは、英里が深夜の長い仕事を終え、帰宅してメイクを落とそうとしたときだった。
スマートフォン越しに聞く警察からの言葉に、世界が凍りついた。
『……ウソ……』
英里は、仕事から帰ってきたままの、派手な着の身着のままの姿で、財布だけを掴んで家を飛び出した。
搬送された病院へ急ぐ。
修学旅行先は北海道だ。
新幹線を使っても乗り継ぎが必要なかなりの遠方だった。
新幹線のシートに座る英里の身体はずっと小刻みに震えていた。
仕事のあとの強烈な眠気など、まるで最初から存在しなかったかのように、脳は完全に覚醒していた。
(………修……修……お願いだから、無事でいて……)
新幹線を降り、そこから病院へどう向かったのか。
タクシーに乗ったのだろうか、それとも別の何かに飛び乗ったのか。
もはやその道のりの記憶も、どれくらいの時間が経過したのかさえ、英里の頭には覚えてすらえなかった。
『赤沢修さんのご家族ですか!?今、手術中です!』
病院の受付でそう言われ、英里は案内された手術室の前のベンチに、独り、力なく勢いよく腰を落とした。
どれほど時間が経っただろうか。
ふと入ったトイレの鏡の前に立ち、自分の顔を見た時、英里はその酷い姿に息を呑んだ。
ファンデーションは浮き、マスカラは涙で黒くドロドロに落ち、髪はボサボサに乱れていた。
自分がずっと泣きながらここに辿り着いたことにすら、その鏡を見るまで気が付かなかった。
「こんな顔……笑われちゃうな」
『お母さんはさ!いつも綺麗でいてよ!自慢なんだから!』
いつだったか、学校行事に行く前にそう言って嬉しそうに笑った修の顔が、脳裏に優しく浮かんだ。
だが、急いで飛び出してきたため、化粧道具なんて何一つ持ってきていない。
仕方がなく、洗面台の水を顔にパシャパシャと当て、なんとか手櫛で髪を整え、できる限りの身なりを整えた英里は、再び手術室の前のベンチへと戻り、ただ静かに祈るように座って待ち続けた。
やがて、長い時間のあと、手術中の赤い明かりが消え、疲弊した表情の医師が扉から出てきた。
「赤沢修さんのお母さんですか?」
「はい」
「……とりあえず、一命は取り留めました。命は助かりましたよ」
「………ありがとうございます………っ」
涙がボロボロと溢れ出し、英里は医者に向けて深く頭を下げた。
生きていてくれた。
神様が息子を返してくれたのだと、その瞬間は安堵に胸を満たした。
しかし、その下げた頭の上に容赦なく降り注いだ医師の言葉は、あまりにも無情で、残酷な現実だった。
「ただ……非常に強い衝撃を脊髄に受けておりまして、回復は非常に難しいでしょう。おそらく、車椅子が必要になるかと。それと、頭部にも強いダメージがありますので、もしかしたら、何らかの後遺症が残る可能性が非常に高いです……」
英里は頭の中が真っ白になった。
ゆっくりと頭を上げて医師の顔を見つめるが、喉が完全に張り付いたように、何の言葉も発することができない。
助かったはずの息子の、あまりにも凄惨な未来。
英里は両手で顔を覆うと、病院の静かな廊下に崩れ落ち、声を大にして、子供のように激しく泣き叫んだ。
それから三日後、修の意識は奇跡的に回復した。
しかし、医師の言葉通り、最初は喋ることができなかった。
ただ、腰から下が自分の意志で全く動かないという己の体の状況だけは、その幼い頭で完全に理解できたようだった。
それから、地獄のような数ヶ月のリハビリが始まった。
呂律が回らない舌を必死に動かし、発声の練習を繰り返す日々。
そしてようやく、少しだけ喋れるようになった修は、ベッドの横に座る英里に向かって、歪んだ口元を必死に動かし、掠れた声でこう言ったのだ。
「おあ……さぁん」
(おかあさん)
「おぇんえ」
(ごめんね)
「いいひえ、え」
(生きてて)
英里は何も言えず、息を呑んだ。
「いおっつひ」
(荷物に)
「あっへ」
(なって)
「おぇんえ」
(ごめんね)
必死に紡がれた、あまりにも、あまりに重い言葉の羅列。
最愛の息子に、ただ息をして、生きていることそのものを謝らせてしまった。
プライドをドブに捨ててまで、何よりも大切に、世界で一番幸せにしようと育ててきた息子に。
あの身勝手な川井という男の暴走が、息子の未来だけでなく、「生きることへの希望」そのものを完全に叩き潰し、後悔させた。
英里はどんなときも修を荷物と思ったことはなかった。
今、この瞬間でも。
生きることが罪だと思わせた。
溢れる殺意は涙になって溢れ出た。




