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第7話 切望

※本作はフィクションです。

作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。

また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。



「大変申し訳ありませんが、今回の申請は受理できません」


アクリル板の向こうの窓口職員が、マニュアルをなぞるだけの平坦な声を響かせる。


大崎俊彦は、裁判所の本懐申請窓口の前で、自分の耳を疑うようにして硬直していた。

妻の言葉に一晩中悩み抜いた末に、自分が泥をかぶる覚悟で朝一番にここへやってきたのだ。


「……はぁ?受理できないって、どういうことだよ。なんでだよ?どっか、どこを書き直したらいい?」


俊彦の必死な問いかけに、職員は表情一つ変えずに答える。


「いえ、書類の不備というわけではありません」

「じゃあ、なんでだよ!俺には申請する権利があるはずだろう!」

「大崎様が申請された加害者、川井基樹ですが、本日の午前6時42分をもちまして、既に他の方が本懐を遂げております」


その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、俊彦の全身の血が引いていくように、体が一瞬で硬直した。


先を越された。


誰か別の家族が、俺より数時間早く、あのファミレスの誰かが川井を殺したのだ。

申請できなかった悔しさより、自分が人殺しにならずに済んだ安堵があった。


「………え?じゃあ、あいつは……川井は、もう死んだのか?」


絶望の淵からやっとのことで絞り出した俊彦の言葉は、窓口職員の冷淡な一言によって、あっけなく否定された。


「川井ですか?いえ、生きてますよ。」

「……は?」


死んでいない。

本懐が遂げられたのに、犯人は生きている。

俊彦の脳内が完全にゲシュタルト崩壊を起こす。

その意味不明な現実の答えは、5日前の、まさにこの同じ窓口の光景の中にあった。



──5日前。

コンクリートの廊下に、コツコツコツ、と一定のリズムで鋭く大きな音が響き渡っていた。

一人の女が、高いピンヒールを履いて、派手な服装のまま裁判所の本懐申請窓口に向かって歩いていた。


赤沢英里。

被害者の中で唯一『重体』の判定を受けた、赤沢修の母親だった。


「本懐の申請ですか?」


そう声をかけられた英里は、案内係の職員にゆっくりと顔を向けた。

夜の街で着るような派手なワンピース。

だが、その顔は服装に似合わず、ファンデーションが浮き、マスカラは黒く滲んで落ちかけていた。


まるで、ついさっきまでどこかで泣き叫んでいたかのように、生気が完全に消え失せている。


「そう。人を殺したい。本懐で」

「承知いたしました。こちらへどうぞ」


案内されたデスクに乱暴に腰を下ろし、英里は差し出された申請用紙に記入を始める。


「赤沢様。人を殺したい、とのことでしたので、こちらの『本懐の内容』の欄には【殺害】とご記入いただけますか?」


職員からそう淡々と言われた英里は、一瞬だけ顔を上げて職員を冷たく睨みつけると、何も言わずに視線を申請用紙に落とした。

そして、一昔前に流行ったような、丸みを帯びた、酷く女の子らしい幼い筆跡で、黙々と記入していく。


「これでいい?」


バサリ、と乱暴に職員に手渡された用紙には、確かに【殺害】の二文字が書かれていた。


「では、これから確認事項の読み上げを行います………」


その後の事務的な確認事項に対しても、英里は右の耳から左の耳へ聞き流すように中途半端な返事を繰り返し、ただ早く終わらせろと言わんばかりに、認定証の交付を待っていた。


「赤沢様、お待たせいたしました」


しばらくして呼ばれた英里が、再びヒールの音をけたたましく響かせながら窓口にやってくる。

だが、書類を抱えた職員の表情は、どこか言いにくそうに曇っていた。


「大変申し訳ありませんが、赤沢様の申請内容についてですが……」

「なによ?」


英里の低い声が、ピリッと窓口の空気を引き裂く。


「【殺害】が、申請できません」

「なんでよ!!」


一瞬で激昂し、アクリル板を叩き割らんばかりに身を乗り出す英里に対し、職員は怯むこともなく、ただマニュアル通りに淡々と説明を続けた。


「お子様の、修君、ですか。……まだ、病院のベッドで生きてらっしゃいますね?」

「生きてちゃいけないって言うの!?あの子が必死に生き残ったのが悪いっていうの!?」

「いえ、そういう意味ではございません」


職員は手元のバインダーの条文を指差した。


「本懐法では、本懐の内容は『被害者が受けた被害から著しく逸脱しない範囲』という、同害報復の原則がございます。ですから、被害者である修君が生きている以上、赤沢様が加害者の川井を【殺害】することは、不許可となります」


法律が掲げる「被害者遺族の感情の救済」という大義名分。

だがそれは同時に、「死んでいないなら、殺してはならない」という、被害のグラデーションによって遺族を差別する、冷徹なルールの壁でもあった。



〜本懐法 第2条〜

本懐の定義

本法律において「本懐」とは、第5条の規定に基づき本懐申請者が本懐申請書に申告した内容をいう。

2 本懐の申告内容は、次に掲げる要件をすべて満たさなければならない。

 一 当該事件の被害の性質及び社会的影響の双方に対応していること

 二 前号の対応の程度が、申請者及び申請者の親族が受けた、当該事件における被害の性質及び社会的影響と比較して明白に均衡を失するものでないこと

 三 本懐の遂行が、その申告内容の限度において達成可能であり、具体的であること


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