第5話 失望
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
申請を終え、津山隆行は独り裁判所の重い鉄扉から出て、最寄りの駅から電車に乗っていた。
ガタゴトと無機質な音を立てて揺れる車内。
窓ガラスに映る自分の顔は、ここ数ヶ月で一気に老け込んだように酷くやつれて見えた。
あのファミレスで、繰り広げられていた被害者家族の集まり。
あれは到底、話し合いと呼べるようなものではなかった。
お互いに「自分が人殺しになりたくない」と、中途半端な覚悟のまま、ただ重荷を押し付け合っていただけだった。
あの泥沼の空間に、隆行の心はとっくに失望していた。
「ふぅ……」
乗客のまばらな車内で、隆行は小さくため息を一つつく。
だが、胸の内は不思議と静かだった。
あれだけ迷っていたはずなのに、いざ一人で裁判所の窓口へ向かい、本懐の申請を終えてしまえば、何のことはなかった。
(俺には、もう時間がないんだ………)
隆行の現在の年齢は63歳。
事件で命を奪われた娘の瞳は、45歳の時にようやく生まれた、たった一人の愛娘だった。
何度も妻の早紀と手を取り合い、辛い不妊治療の病院へ通い詰め、心も財布もボロボロになりながら、ようやく授かった奇跡のような宝物。
あの小さかった瞳が、高校生になり、修学旅行へ出かけ――そして、冷たい遺体になって帰ってきた。
『被告人、川井基樹を死刑に処す』
裁判で勝ち取った最高刑。
判決の日、法廷で死刑判決を聞いた瞬間、周囲は安堵したような表情を浮かべていた。
しかし隆行だけは違った。
それで終わったわけではない。 瞳が戻ってくるわけでもない。 自分の中に残ったものが消えるわけでもない。
(死刑なんて……そんなもの、のんびり待ってられるか……)
川井が死刑囚になったとしても、明日や明後日にその刑が執行されるわけではない。
死刑判決を勝ち取ったところで、それは終わりではなかった。
判決から執行まで、何年かかるかわからない。
10年かもしれない。
20年かもしれない。
(10年後………俺は73歳だ。ギリギリ、執行の報せを聞けるか?)
(20年後………83歳。……怪しいな。もうこの世にいないかもしれない)
隆行はガタガタと揺れる吊り革を握りしめながら、自分の残された寿命と、死刑が執行されるまでの期間を、脳内で必死に逆算していた。
(ああ……73歳でも、怪しいな。そこまで確実に生きているとは言えない……)
隆行には、死刑執行を待てるほどに生きている自信がなかった。
今は建設会社の役員という立場に収まっているが、若い頃は自ら現場に出て泥にまみれて働いていた。
アスベストを代表として、現在では国から使用を禁止されている危険な建材が、当たり前のように身近に転がっていた世代だ。
長年吸い込んできた微細な毒が、この先いつどんな重い病気となって自分の体に襲いかかってくるか、分かったものではなかった。
(今更、病院に行って、高い検査をして、薬を飲んで……そうやって、あいつが死ぬまで生きながらえろというのか?)
フンッ――。
隆行は胸の内で鼻を鳴らすと、電車の硬い椅子に深く座った。
(ふざけるな。あんな中途半端な罵り合いなんて、もうたくさんだ。誰かに頼むのも、押し付け合うのも、すべて無駄だ。もう、俺がやるしかない)
ついさっきまでファミレスの席で
「……誰でもいい。誰かが川井を殺してくれれば、それでいい」
と枯れ果てたつぶやきを漏らしていた男は、堂々巡りの押し付け合いに完全に辟易し、静かに反転していた。
(俺が、俺の手で、瞳の仇を取ってやる)
車窓に流れる都会のビル群を見つめながら、隆行は確実な、そして冷徹な決意を固めていた。
──その夜。
大崎美和子は、自宅のリビングで納得のいかない様子で夫の俊彦と向き合っていた。
事件のあと、時が止まったような静まり返った我が家。
「もう一ヶ月も過ぎたっていうのに、何一つ決まらない」
美和子は苛立ちを隠そうともせず、険しい声で言った。
「そうだな」
俊彦はただ、力なくそう答えるだけだった。
「誰も、本気で話し合おうともしないのよ」
「そうだな」
「みんな、自分だけは人殺しになりたくないって、中途半端な顔をして押し付け合ってるだけじゃない」
「そうだな」
機械的な返事を繰り返す夫を、美和子は蛇のような冷たい目で睨みつけた。
「あなたも、あの人らと同じよ」
「……え?」
不意を突かれたように顔を上げた俊彦に、美和子はさらに容赦のない言葉の刃を突き刺していく。
「若槻さん?だったかしら。あそこの家はさ、亡くなった子供も入れて、3人とも今の奥さんの連れ子って聞いたわよ?血が繋がっていないならさ、そりゃ自分の手を汚したくない、中途半端な覚悟なのも分かるわよ。……でも、あなたは?」
俊彦は何も言い返せず、ただ黙って美和子の顔を見つめることしかできなかった。
「うちの烈は、あなたの実の子よ。あなたの血を分けた息子よ。……父親のくせに、あなたは何も感じないの?」
「実の子を殺されたのに、何もしないなんて父親じゃない」
そう言わんばかりの、惨いほどの責め苦。
美和子の瞳の言葉が、俊彦の心を容赦なく抉り取っていく。
深夜。
俊彦は一人、薄暗いリビングで考えに考え抜いていた。
耳の奥で、妻の「実の子なのに何も感じないのか」という剥き出しの言葉が、何度も何度も蘇る。
眠れぬまま、ただ窓の外が白んでいくのを眺める、長い長い夜を過ごした。
やがて、部屋の窓から朝陽が差し込んできた時、俊彦は誰もいない空間に向かって、小さく、けれど引き返せない声を呟いた。
「……いくしかないか」
死んだ息子のために、自分が人殺しになることを決めた瞬間だった。
しかし、俊彦がそうやって朝陽の中で決意を固めるほんの数時間前、すでに津山隆行が『本懐申請』のハンコを押していたことなど、俊彦は知る由もなかった。




