第3話 回望
※本作はフィクションです。
作中に登場する「本懐法」その他の法律・制度・行政手続等は作者による創作であり、実在する法律・制度ではありません。
また、実在する人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
「今日も最悪だったわ」
夜遅く、重い足取りで帰宅した坂田千絵は、リビングの椅子にバッグを投げ出すように置くと、開口一番にそう漏らした。
「どうした?もう一ヶ月近く話し合ってるっていうのに、まだ決まらないのか?」
ソファで新聞を広げていた夫の伸浩が、眼鏡をずらして答える。
「大崎さんがまたブチギレてさ。もう鬼の剣幕っていうより、狂気の沙汰よ」
「またか……。あの人、お前の地元の先輩だろ?なんとかならないのか?」
「昔からなの、あの人。気性が激しいっていうか、荒いっていうか。今日は話の途中で興奮して、ここ、掴まれてさ」
千絵は眉をひそめながら、自分のブラウスの襟元を指差した。
「それにさ、うちの子だってあの骨折したのよ?重傷よ?それなのにさ、あの人、うちの純也の怪我を『かすり傷』とか言うのよ?どうなのよそれ。いくらなんでも酷くない?」
「そうは言ってもさ、あちらは息子を亡くしてるんだし………」
「……それは、そうだけどさ」
ため息交じりの千絵の言葉は、それ以上続くことはなく、二人の間に少しの間、冷たい沈黙をもたらした。
同じ事故の被害者であっても、命を落とした側と、生き残った側の間には、決して埋まらない溝があった。
バタンッ!
静寂を破り、勢い良く玄関のドアを開けて、息子の純也が帰宅した。
「ただいま!」
「あんた、何時だと思ってんのよ!」
千絵が壁の時計に目をやる。時刻は22時38分を回っていた。
「いや、ちょっと、ほら、あの………塾の課題が長引いてさ」
高校2年の秋、あの凄惨な修学旅行の事故に遭った純也は、あれから月日が流れ、大学受験を目前に控える高校3年生になっていた。
あの時に折れた足の骨はもうとっくに引っ付いていたが、家族の心にはまだ目に見えないヒビが残っている。
「どうせまたどこかで遊んでたんでしょ?」
「違うって!」
「じゃあ、こんな時間までどこへ行ってたのよ!」
「修のところだよ!」
純也が少し苛立ったように声を張り上げた。
修――赤沢修。
あの事故で、純也たちの目の前で車に撥ねられ、唯一「重体」の判定を受けた同級生の名前だった。
「……それなら、そうと、最初から正直に言いなさいよ」
2人の言い合いを見ていた伸浩が、静かに声をかける。
「あの事故からさ、母さんはだいぶん心配性になってるんだ。純也、お前も骨折だけで済んだとはいえ、もう少しだけ母さんに心配をかけないようにしてやれ」
「……わかったよ」
気まずそうに顔を伏せ、純也は短く返事をした。
「で、赤沢君の様子はどうだった?少しは良くなってたか?」
「ん~~、あんまりかな?」
純也は持っていたカバンをリビングの椅子に置くと、冷蔵庫を開けた。
炭酸ジュースのペットボトルを取り出し、キャップをひねると、そのままラッパ飲みし始める。
「あ!また!コップに入れなさいって何回言ったら覚えるの!」
千絵の小言を受け流しながら、とりあえず喉の渇きを潤した純也は、ペットボトルを片手に続けて話した。
「これ俺しか飲まないし、いいじゃん別に。……んで、修なんだけどさ。やっぱり、もう歩けそうにないみたいなんだ」
赤沢修は、あの時、時速130キロの鉄の塊に直接弾き飛ばされた。
一命は取り留めたものの、脊髄を激しく損傷し、下半身不随となって一生車椅子での生活を余儀なくされていた。
「あと、まだ喋るのも難しいんだ。なんか、こう、何喋ってるか、よく耳を澄まして聞かないと、全然わからないんだよね」
下半身だけでなく、脳の一部にも強いダメージを負った修は、呂律が完全に回らなくなってしまっていた。
「そう……。でも、少しずつでも良くなっているんでしょう?」
「いまいちかな。ちょっと俺にはよく分かんないや」
「赤沢さんのお母さんは?今日も病院にいたの?」
「いや、見てない。ていうか、修のお母さんとは病院でも会うことないよ。母さんが『あんまり近づくな』って言ってたじゃん」
赤沢修の母親、赤沢英里は、繁華街の性風俗店で働いている。
女手一つで修を育てるための夜の仕事。
母親の仕事を理由に、千絵は以前から赤沢家との距離を置こうとしていた
「仕方がないでしょ?お母さんの仕事が、ねぇ……。あんまり、いいとは思えないから」
「まぁ、知らんけどさ。修は修だし。」
「……でもね…」
「それは親の仕事のことだろ?修はなんもしてねぇし」
それだけを言い残すと、純也は炭酸ジュースを持ってリビングを離れ、自分の部屋に入った。
狭い2DKの古いマンション。
薄い壁を隔てたリビングの隣が、純也の部屋だった。
ベッドにドサリと横たわり、純也はゆっくりと目を瞑る。
「はぁ………」
視界を暗闇に閉ざした瞬間、純也の脳裏には、あの秋のまばゆい青空と、一瞬で阿鼻叫喚の地獄へと変わった事故現場の生々しい光景が、鮮明なフラッシュバックとなって映し出された。
耳の奥で、引き裂かれるような悲鳴と、肉が潰れる音がする。
そして、事件直後の白い無機質な病室で、千絵と共に見つめていた報道番組の声が、今でも頭から離れない。
淡々と、記号のように読み上げられていく、一緒に笑っていた同級生たちの名前。
『今回の事件で、死亡が確認されたのは以下の5名です。大崎烈さん、須貝明さん、津山瞳さん、持田香蓮さん、若槻謙太郎さん…………』
「……はぁ」
純也のため息は誰にも聞かれることなく、部屋の暗闇に消えた。
大人たちの言い争いの脇で、純也は川井が死んでも戻らない友人たちに思いを馳せた。
彼らがどれだけ言葉を尽くそうとも、あの凄惨な秋の日に失われたものは、何一つとして戻りやしないのだから。




