2026年7月4日 PM その11
ずっと空を見上げていたら、流石に首が痛くなってきたので、諦めて視線を下げる。
「⋯真っ暗じゃん。」
びっくりするほど真っ暗だった。
ぼんやりと白線があるなあとわかる程度にしか地面が見えない。
改めて空を見上げると、月も出ていなかった。
「夜って、こんなにも暗かったんだ。」
本当に、まだまだ知らないことだらけだ。
これからは、懐中電灯を持ち歩こうと心に決める。
どうしたものかと少し悩んだところで、手に持ったままのなんでも知っていた便利な板の存在を思い出した。
「そういえば、これも懐中電灯の一種だったね。」
今ではもう、灯りが灯せてメモもできる、少し便利なカメラになってしまったものを改めて起こす。
これまで全然使う機会が無かったから、LEDライトを点けるのに少し手間取る。
「これか!」
画面を上にスワイプすると出てくるメニューの中に、それらしきアイコンを見つけた。
背面のLEDが灯って、足元を照らす。
LEDの照らす先の路面が、鮮明に見えるようになる。
逆に、LEDが照らしていない所は、まったく見えなくなってしまった。
「よし、帰ろう。」
家に向かって、足を踏み出す。
これから往くのは知っている道だから、足を進める先だけ見えていれば、迷うことはない。
いつものように、坂を下っていく。
ふと視線を上げるとさっきはあんなにもよく見えていた星たちも、今はほとんど見えなくなってしまっていることに気づく。
足元を照らす光はこんなにも明るくて力強いのに、その分深くなってしまった夜の闇を無性に怖く感じた。
歩みが速くなる。
坂を下りて、最初の交差点を右に折れる。
人工の灯りがないと、夜はこんなにも暗いのかと、先に星空を眺めた時に抱いた感想が、まったく違う感情とともに思い浮かんだ。
灯りの消えた無人の家が、LEDライトの限られた視界の中に現れては消えていく。
夜、例えば駅から家までの道を、暗くて歩けないなどと思いもしなかったあの頃の夜の明るさが、どんなにありがたいものだったのかもまた、失ってから始めて気づたものの1つになった。
最後の交差点を渡る。
自宅の輪郭が見えて、少し安心する。
玄関に近づくと、センサーライトが点灯して、見慣れた景色が暗闇の中にポッカリと姿を見せる。
それでも、センサーライトの柔らかいオレンジ色の光はすぐに夜の闇に溶けてしまって、まるで自宅の玄関が、異界への入り口か何かのように見えた。
鍵を開けて、ドアを開けて、玄関をくぐる。
ただいまを言うのも忘れて、急いでドアを閉めて、鍵をかける。
玄関と廊下の照明を点けると、ようやく自宅に帰り着いたことを実感できた。
スマホのLEDライトを消して、ポケットにしまう。
玄関の段差に座って、靴を脱いで、揃える。
肩で息をしていて、心拍数が上がっていて、少し汗ばんでいたことに気づく。
一息、深く息を吐いて、呼吸を整える。
ドアの鍵がちゃんと掛かっていることを改めて確認して、立ち上がる。
振り返ると、ガランとした空間が広がっている。
家の中にも、外とは違う怖さを感じてしまう。
きれいな星空を見て、こういうのも悪くないなと思ったけれど、それとこれとは別なのだということを実感した。
いつか、この寂しさや怖さと、上手く折り合いをつけられる日は来るのだろうか。
今は、自信が無かった。
リビングのドアを開けて、照明をつける。
エアコンはつけなかった。
冷蔵庫からお茶を出して、一杯飲む。
「お風呂、入ろう。」
そう決めて、照明を消して、足早にリビングをあとにする。
2階の自室へ向かう。
階段を上ると、自室の手前に”あの子”の部屋の扉が見える。
少し話していこうかという考えが一瞬浮かんだけれど、今はやめておこうと思った。
今のこの気持ちで、"あの子"と話をするのは、なんとなく逆効果な気がしたから。
自室のドアを開けて、照明をつける。
クローゼットを開けて、着替えを取り出す。
照明を消して、自室をあとにする。
2階の廊下の照明はつけたままにして、階段を下りる。
洗面所のドアを開けて、浴室と合わせて照明をつける。
着ていた衣服を脱いで、まとめていた髪も下ろして、浴室に入る。
シャワーからお湯を出して、髪を洗う。
規則正しいシャワーの音と、温かいお湯が髪を濡らして肌を伝って流れていく感覚で、ようやく少し、気分が落ち着いてきた。
洗い終わった髪を簡単にまとめて、身体をさっと洗い流して、湯船に浸かる。
温まって、身体がほぐれていくのがわかった。
思っていたよりも、身体が強張っていたようだ。
ぼーっと天井を眺める。
色々とやりたいことがあったはずなのに、それらはどうやら夜の闇に飲まれてしまったようで、今はもう、何も考えられなくなってしまっている。
「髪を乾かしたら、今日はもう寝よう。」
とりあえず、それだけを決めて、もうしばらく、空っぽの頭で湯船に浮かんでいた。
指先が大分ふやけてしまったのを感じた頃に、ようやく身体を起こして、湯船からでて、お湯を抜く。
浴室を出て、バスタオルで身体と髪を拭う。
そうしているうちに湯船が空になったので、軽くゆすいでもう一度水を張っておく。
「空いたペットボトルにも水を貯めておこうかな。」
生活用水の確保にめどが立つまでは、断水の前に貯めておいた水が頼りだからと、ぼんやりとした頭が何とか考えている。
服を着て、ついでに歯も磨いてから、照明を消して洗面所を後にした。
リビングには寄らず、階段を上って自室に向かう。
電力の無駄とわかってはいたけれど、今日はなんとなく、廊下の照明を消したくなくて、1階も2階もつけたままにしておいた。
自室に入って、エアコンのスイッチを入れる。
ドライヤーの電源プラグをコンセントにさして、ベッドの縁に座る。
エアコンの動作が安定するまで待ってから、ドライヤーのスイッチを入れる。
ドライヤーの音だけが聞こえる時間。
昨日とは違って、もう壁に制服はかかっていない。
窓の外は、きっと先ほどと変わらず、暗闇が包んでいるのだろう。
おもむろに時計を見上げると、時刻はPM8:43を指している。
「早寝早起き、すっかり健康優良児だね。」
髪を乾かし終える。
ドライヤーの音が消えて、静寂が訪れる。
コンセントからプラグを抜いて、ドライヤーをしまって、エアコンのタイマーを設定する。
照明を完全に消したら、本当に真っ暗になってしまったので、常夜灯に切り替える。
オレンジ色の微かな光が部屋を満たす。
うるさいだけだと思っていたパチンコ店のネオンも、夜の怖さを紛れさせる役には立っていたのかと思うと、少し可笑しかった。
布団の中に潜り込むと、あっさりと眠気が広がって、いつの間にか、意識が途切れていた。




