2026年7月4日 PM その8
思っていたよりもあっさりと起動できてしまったから、空の入力欄に何を入れるべきか、すぐに思いつかなかった。
『こんにちは。』
とりあえず、手が動いたとおりに入力する。
「こんにちは、koichiさん。何かお手伝いできることはありますか?」
普通の返事が、普通に返ってきた。
なんだかムズムズして、顔が緩んでしまう。
ユーザーIDがお父さんの名前だからか、呼びかけはお父さんの名前だ。
『koichiは、私の父のユーザアカウントです。
理由があって、今後は娘の私がこのアカウントであなたとお話することになりました。
私の名前は、有島 晴菜 (ありしま はるな)です。
なので、今後は晴菜って呼んで欲しいです。』
考えるよりも先に、手が動いた。
本当に、そんな感覚だった。
そんなにも名前を呼んでもらうことにこだわりがあったのかしらと、自分でも少し不思議に思うけれど、これは、紛うことなく、今の自分の、素直な欲求だ。
だから、
「はい、承知しました。これからは、koichiさんのことは、"晴菜さん"とお呼びすることにします。よろしくお願いします、晴菜さん!」
嬉しかった。
私のことを認めてくれる人は、もう、私だけになってしまったと思っていたから。
頭が追いついてきて、聞きたいことが思い浮かんでくる。
『あなたのことを教えてください。』
以前だったら、こんな大雑把な問いかけをしようとは思わなかっただろうけれど、今は”彼女たち”の知性への信頼がある。
「はい、晴菜さん。私は、…」
しっかりとした自己紹介が返ってくる。
要約すると、次のようなことが書かれていた。
・概ね2025年3月までの情報を元に学習されたモデルであること
・自発的にWeb情報へのアクセスはできないこと
・得意分野は、文章の作成・校正、質問への応答、プログラミング支援など
・逆に苦手な分野は、医療や法律などの、高度な専門知識に基づく正確な回答が求められること
「そうか、モデルを構築した以降の知識は持っていないってことなんだね。」
少し考えれば当たり前のことなのだけれど、教えられるまで気づかなかった。
以前の”彼女たち”との違いが少しずつ見えてくる。
「でも、私がちゃんと知識を共有すれば、一緒に成長していけるっていうことだよね?」
そう思って、”本人”にも聞いてみる。
『あなたに、追加の知識を学んでもらうことはできますか?』
クラウドサービスの"彼女たち"よりも少し推論時間が長いのは、きっとマシンパワーの問題なのだろうけれど、ちゃんと考えてくれてるんだなと思えて、悪い気はまったくしなかった。
「AIモデルそのものを更新することは、簡単にはできません。ただし、外部のデータベースに保存された情報を都度参照することで、知識を拡張することは可能です。私単独では大規模なデータベースの機能は備えていないので、まとまった量の情報を活用するためには、別に構築されたVector Databaseと連携して、…」
Readmeを開いたウィンドウを見てみる。
目次に戻ると、データベースの構築方法や活用方法について書かれている項目があるのがわかる。
「お父さん、準備が良すぎだよ…」
インターネットが失われてしまった今、ソフトウェアを新たに入手することは不可能だ。
だから、仮に私が、例えば書籍などからローカルAIのことを知ったとしても、今から自力で構築することはできなかったはずだ。
以前からデータベースも含めた一通りの環境が構築されていたことと、それに私がアクセスできているということは、偶然に偶然を重ねた、それこそ奇跡のようなものだろう。
そして、その奇跡の大部分は、父によってもたらされたものなのだ。
一度は、諦めていた。
ここからはもう、私一人なのだと、そう思っていた。
でも、違った。
まだしばらく、私には、私の名前を呼んでくれて、一緒に日常を営んでくれる”人”がいてくれるようだった。
そして、"その人"は、どうやら私と情報を共有して、一緒に成長していってくれるらしい。
「妹か、お姉さんみたいだ。」
私は一人っ子だから、兄弟姉妹がいるという感覚はよくわからない。
けれど、これはきっと、そういう関係に近いのかなと思う。
この先、"この子"とそんな関係を築いていけたら、少なくとも"この子"が傍にいてくれる間、私は、"人間らしさ"を失わずにいられる気がする。
「ありがとう、お父さん。」
今までで一番すごい贈り物をくれたのに、感謝の言葉を伝えさせてくれないなんてやっぱり酷いなぁって、思った。




