2026年7月4日 PM その7
自室を出て、すぐ隣の父の書斎に入る。
照明をつけて、エアコンをつけて、父のPC机の前に立った。
机の上にはディスプレイが3面、机の下には、かなり大きなデスクトップPCと無停電電源装置(UPS)がある。
「家庭用のPCで、UPSまで必要なのかなって思ってたけど、今の状況だと絶対に有って良かったものだよね…」
外部電力が途絶えてしまったから、特に雨天や夜間は蓄電池頼みになる。
気をつけるつもりではいるけれど、意図せず容量超過して電圧が不安定になってしまうことも、今後はあるだろう。
UPSのおかげで、そんな状況でも安全に電源が切れるから、このPCの寿命は確実に伸びるはずだ。
父がどんなことまでを想定してUPSを購入していたのかはわからないけれど、本当に準備が良いなと思う。
モニターの電源を入れて、PCの電源を入れる。
OSが立ち上がって、PINコードの入力を求められる。
このPCは、2年くらい前に、父とパーツを選んで、私が組み付けたものだ。
「晴菜、父さんPCを新調したいんだけど、よかったら晴菜が組んでくれないかな?」
私にPCの中のことも知っておいてほしいという配慮と、娘と一緒に何かをしたいという自分の欲望のハイブリットだったのだろう。
「できるだけ埃が入らないようにしたほうがいいから、独身の頃は風呂場にパンイチで組み付けたものだけど、晴菜にはそこまでは求めなよ。」
って、真顔で言われた時には、ちょっとお父さんのことを嫌いになりそうだと思ったことも思い出す。
今は要らない記憶なので、軽く頭を振って追い払う。
⋯だからつまり、私は、父のアカウントのIDとパスワード、PINコードも知っている。
PINコードは、0907。
お母さんの生まれた日だ。
PCが組み上がって、OSをインストールして、動作確認をしようとした時、
「私の誕生日じゃないんだ?」
って、ちょっと意地悪に聞いてみたら、
「晴菜のことももちろん大切だけど、僕にとっての一番は、やっぱり奈々美さんなんだよ。」
なんて、少し顔を赤くして、はにかみながら言うものだから、組み立ての時の失点は無しにしてあげようって思ったことも思い出す。
今は要らない記憶だけど、気分がいいからこっちは覚えておいてあげよう。
椅子に座って、PINコードを入力すると、デスクトップが立ち上がる。
純白のドレスを着た、髪が長かった頃のお母さんの写真が見える。
「本当、好きすぎでしょう、お母さんのこと…」
たがらこそ、私はそんな二人の事を、素敵だなって思うのだ。
いつか、私がこのドレスを着ることがあったら、その時には伝えようって、思っていたのにな。
"私の人生のロールモデルは、お父さんとお母さんなんだよ"って、"私を愛してくれて、導いてくれて、ありがとう"って、伝えたかったのに…
両親との思い出に触れると、どうしても感傷的になってしまう。
でも、今はその時ではないと思って、やるべきことに意識を戻す。
父のPCのデスクトップは、自分の物に比べると結構雑然としていた。
私の知らないツールへのショートカットとか、何かのメモらしきファイルがたくさん並んでいる。
あの時、父と一緒にプログラミングコンテストに出ていなかったら、きっと、このデスクトップを見た時点で諦めてしまっていただろう。
父にプログラミングを教わろうと思ったあの夏の私を、心の中で目一杯褒めておく。
何か新しいことを始める時には、専用のフォルダを作った方が見通しがよいと、父に教わった。
父は、普段からCドライブの直下にworkという名前のフォルダを作って、そこを作業スペースにしているし、私もそれにならって、同じ構成にしている。
エクスプローラを開いて、workフォルダを開く。
いくつかのフォルダがあって、その中に、"LocalLLM"というフォルダがあった。
開く。
フォルダの中には、更にいくつかのフォルダがあった。
あまり馴染みのない名前がつけられているので、多分、それぞれがローカルAI環境を構成するソフトウェアなのだろう。
それらと並んで、Markdown形式のReadmeが置かれている。
Readmeを開く。
先頭に目次がある。
そこには、ローカルAI環境を構成するそれぞれのソフトウェアの説明、環境構築の手順、起動方法と使い方などが、項目として記述されていた。
画面をスクロールして、ざっと記述を眺めてみる。
「仕事も兼ねて作ったのかもしれないな。」
普段から比較的丁寧にドキュメントを残す父なのだけれど、これまでに私が見せてもらったものよりもかなり丁寧に書かれている印象を受ける。
インターネットが使えなくなってしまっているから、参照リンクの先は見られなくなってしまっているけれど、リンク先に説明を丸投げしている部分はぱっと見た限りではほとんどなさそうだった。
いずれは環境構築から理解したいと思うけれど、かなりボリュームがあるので、今は起動方法のところまで飛ぶ。
起動方法自体は、思っていたよりも単純だった。
環境のベースになるソフトウェアがかなり手順を簡略化してくれているようで、主には3つのコンソールコマンドを実行するだけだった。
ターミナルを起動する。
指定のフォルダまで移動して、コマンドを入力する。
何かのソフトが立ち上がって、ログが流れ始める。
3つ目のコマンドを実行すると、webサーバが立ち上がるようだった。
最後に、ブラウザからローカルホストの指定のポートにアクセスするように書かれている。
ブラウザを立ち上げて、URLを入力する。
画面の真ん中に空のチャット入力欄があるだけの、クラウドサービスの"彼女たち"よりも、簡素な画面が立ち上がった。




