2026年7月3日 PM その6
雨は20分くらいで上がった。
夏の夕立は、気まぐれに降りたいだけ降って、降り飽きたらそそくさと去っていく。
まるで、猫みたいだなって思った。
結局、雨が降り始めてから止むまでの間、ずっと眺めてしまっていた。
もう、お風呂の追い焚きは終わっているだろうけれど、炊飯器は、まだ少しかかるはずだ。
そう判断して、雨が上がった世界を眺めに行くことにする。
短い時間だったけれど、目の前の道路や畑には大きな水たまりがいくつもできていた。
水たまりには、少し灰色がかった雲と、わずかに覗く青い空が映り込んでいる。
いつもの陸橋を上っていく。
最頂部について、あたりを見回す。
まとまった雨のおかげで、多くの延焼地点で火勢はかなり弱まったようだった。
まだ煙が立ち上っている所はたくさん見えるけれども、多くは燻ったモヤのような弱々しい物になっている。
一部は燃料が豊富だったり、屋根が残っていたりしたようで、雨にも負けず元気に黒煙を吐き出し続けているけれども、ここから見える範囲では、その数は両手で数えられるくらいに減っていた。
ところどころに雲の切れ間があって、そこから、浅い角度で夏の夕方の日差しが差し込んでいる。
長く伸びる日差しは、雨上がりで少し霞がかった空気に光跡がきらきらと輝いていて、スポットライトのように街の一角を照らしている。
私に対してはイジワルな世界だと思うけれど、こういう景色は、本当に美しかった。
雨が降ったくらいで、何かが変わったわけではないのに、なんとなく、新しくなったような気がして、さっきはあんなに強く感じていた憤りも、虚しさも、少なくとも今は、鳴りを潜めている。
ポケットからスマホを取り出して、写真を撮った。
誰かに見せるためではない。
いつかの私のために、いずれ朽ちていく世界を切り取って残していくというのも、"幸せに暮らす"ことの構成要素としては、悪くないと思ったから。
見回すと、南西から北東に向かって、日向が日陰を追いかけて走ってくるのが見える。
日向が私を追い抜いていく。
眩しくて、ちょっとだけ肌に刺さる夏の太陽が、雲の端から顔を出す。
世界が、表情をコロコロと変える。
やっぱり、猫みたいだなって思った。
走り去っていく日陰にカメラを向けて、また1枚、気まぐれな世界を収めておいた。
陸橋を下りる。
自宅へと続く道を歩く。
大きな水たまりに、夏の夕方の青空が映り込んでいる。
なんとなく、思いっきり水たまりを踏みつけて歩いた。
玄関をくぐって、ドアを閉めて、鍵を締める。
「ただいまぁ。」
私の世界に挨拶をする。
靴を脱ぐ。
水たまりを踏んで歩いたから、かなり汚れてしまっている。
近々洗ってあげよう。
幸い、靴の中までは染みていなくて、靴下は換えなくても済みそうだった。
リビングに入って、キッチンのシンクで手を洗う。
時計は、もうすぐPM6時を指そうとしている。
冷蔵庫から、昼に取り分けておいた、最後の作り置きを取り出す。
炊飯器からは、すぐ食べる分を茶碗に盛り付けて、残りは冷蔵・冷凍用の容器にそれぞれ取り分けて調理台の上に並べておく。
ダイニングテーブルの自分の席に、食器を並べる。
席について、手を合わせて、
「いただきます。」
今日のメニューは、鶏肉のハンバーグ、きんぴらごぼう、れんこんと豆のサラダだ。
これが、お母さんが作っておいてくれた最後のご飯だと思うと、どうしても箸が重くなった。
「もっと、料理教えてもらっておけばよかったな。」
そんなことを思う。
インターネットに公開されていた膨大な情報も、もう殆どが失われてしまって、実質的に残っているのは、私の部屋のノートPCの中にコピーできたものだけになりつつある。
紙の書籍も、全世界に膨大な数が残されているだろうけれど、私が今後アクセスできるのは、せいぜいこの県内に遺されたものくらいで、しかも、情報を選んで入手することは検索システムが使えなくなってしまえばと格段に難しくなる。
それらの情報と比べても、私が"幸せに暮らす"ためには、母のレシピはかなり重要なものだったはずなのだ。
「お母さんは、メモとか残してないよねぇ…」
これが父だったら、きっとどこかにメモくらい残してくれているだろうと期待できるのだけれど。
『んー、いつも感覚で入れちゃうからなぁ。ちょっと辛めにしたかったらこれくらいとかさ、なんとなくなんだよ。幸一みたいにちゃんと教えてやれなくて、ゴメンな。』
以前、母の料理を手伝いながら、調味料の加減をどうしているのかを聞いたときに母が言っていた。
その時の母は、珍しく申し訳なさそうにしていたけれど、私はむしろ、"感覚でこんなに美味しくできるなんて、私のお母さん、すごいなぁ"って思っていたことを思い出す。
「お母さんの味にどこまで近づけるかを探求するのも、"幸せに暮らす"ための目標の1つかもしれないな。」
目標、失われてしまった母のレシピを再現すること。
なんだか、やりたいことがいくつも思いついて、この先にはとても充実した日々が待っているような気がしてくる。
「お母さんのおかげだね。」
そんな事を考えながら食べた、おそらく人生最後の母のご飯は、いつも通りとても美味しかったけれど、今日も少しだけ、塩気が強いなって思った。




